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オランダ領インドネシア(ジャワ島)の女子抑留所とオランダ人「慰安婦」

1.インドネシアでのオランダ軍の日本軍への降伏


「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」の資料には、オランダ人女性を「慰安婦」とした4件の事件(櫻倶楽部事件、マゲラン事件、スマラン事件、フローレンス島事件)の証言が記載されている。この4つの事件は、日本軍が女子収容所を作り、その収容所からオランダ人女性を「慰安婦」にした事件である。

蘭領印度(インドネシア)はオランダの植民地として1600年前後から、1942年の日本軍に降伏されるまでの約350年間統治され、経済的搾取を主にして支配されていた。
蘭領印度でのオランダ人は、インドネシア社会に融合することなく、オランダ人・中華人・インドネシア人のそれぞれ3つの独立したコミュニティが形成(複合社会)されていて、オランダ人はオランダ風の生活を守っていた。

そんな彼らの幸せな生活は、蘭印印度が日本軍に降伏したことから終わった。
1942年3月1日日本軍第16軍のジャワ上陸作戦、3月9日には蘭領印度軍司令官と蘭印政府総督は日本軍第16軍隊・今村均司令官との間に協定書に署名して無条件降伏をした。その時の連合軍の兵士は蘭印軍(約6万5000人)、英豪軍(1万6000人)であった。

3月29日にはバタビア(現ジャカルタ)に日本軍政監部が設置された。その翌日の3月30日には蘭領印度軍兵は全員が収容所に監禁された。その後、連合軍兵士は、タイ、マレー、フィリピン、ジャワ、ボルネオの俘虜収容所に収容された。この無条件降伏と連合軍兵士を収容することにより、ジャワ島は日本軍が連合軍に敗戦するまで戦闘地域ではなくなった。

なぜ太平洋戦争の初期の段階で日本軍は蘭領印度が必要だったのだろうか。
日本軍の蘭領印度への侵略は、蘭領印度の豊富な石油などの資源や食糧、軍備の供給源が、太平洋の戦地への後方支援として必要だったからだ。1905年には蘭領印度での輸出品である鋳物、石油の30%が日本向けであった。

そして1939年までにはインドネシアには6500人(内ジャワ島に5000人)の日本人が在留しており、商業活動(農業、水産、農林など)が盛んに行なわれていた。
だが1939年には蘭領印度政府から石油採決権を拒否されることになった。
その年の10月に蘭領印度に住んでいた日本人は全員帰国させられることになったという経過がある。しかし、日本軍の占領後の1942年3月には日本軍が指定した日本企業の派遣社員(一般邦人)1500人が呼び寄せられている。

1942年4月より、ジャワ島にいる日本人と蘭領印度現地人を除いた17歳以上の外国人を管理するために、該当する外国人に対して「外国人居住登録宣誓書」が強制的に作成されている。この宣誓書には、氏名、住所、国籍、出身地、職業、在留日数、家族関係が記載され、写真を添付し、指紋を押捺させられ、その外国人に登録料を払わせている。1942年末から女性・子どもはジャワ島で6カ所の指定移住区で暮らすことになった(約2年)。
この居住区には、家から家具や衣料等の生活必需品を運び込むことができ、「外国人登録書」を持っていれば自由に行き来ができた。

現地人との物々交換などで、食糧や日常の生活必需品は個人の裁量で手にいれることもできた。また、様々な情報はオランダ語のラジオで流されていたが、日本軍に降伏後には使用言語は基本的にインドネシア語となった為、情報の把握が困難となった(1942年6月ラジオ禁止令)。貨幣はギルダー表示の軍票となっていた。



2、オランダ人女性・子どもの抑留所

1943年11月前後に軍司令官の命令で女性・子どもの抑留所が開設された。ジャワ島の6万9779人のオランダ人女性・子どもは1カ所8000人の規模で各抑留所に収容されることになった。収容される際の荷物はボストンバッグ1つと規制された。
日本軍が敗戦する前の1945年の6月時点では、合計7万人が3つの地域に29の抑留所と3ケ所の病院に分けられて収容されていた(内訳男子・老人2万3677人、女子3万1174名、子ども1万4938名で大半がオランダ人)。

なぜオランダ人女性・子どもを指定居住区から、抑留所に隔離したのであろうか。
日本軍にとって居住指定地区より収容所の方が食糧やその他の必需品などコストの面でも、人的管理の面でも大きな負担のかかるのである。だが1942年11月から指定居住区に住むオランダ人及び敵国人の管理が、軍政監部から軍司令官となり防諜という理由から厳しい管理と隔離の方針が立てられたからである。

 収容所での生活はどのようなものであったのであろう。蘭領印度でのオランダ人女性の生活の日常は田畑を耕したり、糸を紡いだりすることはもちろん、料理をしたり、掃除をしたり、おむつを取り換えたり、子どもをお風呂にいれたりする経験がなかった。
収容所での生活は食糧不足の為の恒常的な空腹、トイレなどの大量の汚物処理、トイレの穴掘り、様々な悪臭、極度の水不足、薬品の不足、南京虫、ゴキブリ、シラミ、ネズミ、そして蔓延する感染症の中、横になって寝ることもできないような住居環境にあった。
宗主国の女性として快適に暮らしてきた女性にとって、抑留所での生活に順応することがどれほど困難だったかということは様々なオランダ人女性の証言から推察される。

 そしてこれらの抑留所は竹で編んだ高い壁に有刺鉄線がはられ、外の人(インドネシア人)との接触を禁じられ、ラジオも聞けなかったことから彼女たちは抑留所の外で何が起こっているのかを戦争が終わるまで全く分からずにいた。
また1年半の収容所生活は、単に1ケ所に留まってはいられなかった。いずれも1つの所に数カ月で、1日中徒歩で或いは列車で移動させられた。そしてそこがどこなのかもわからず見通しもつかず不安定な状態の中にいた。ようやく慣れて生活も落ち着いたころ移動させられる。これは日本軍が収容者の連帯を恐れためと考えられる。そして照りつける太陽の下で何時間にもわたる点呼やささいなことで残酷な罰を受けた。

しかしオランダ人女性たちは、自分たちの知恵を生かして収容所での生活を送っていた。抑留所生活の最後の半年にはたくさんの死亡者がでている。抑留所の死亡者数は6353人で死亡率は9.1%に及んでいる。最悪だと言われているチデン収容所では、この数字以上だと考えられる。この収容所の所長であった曽根憲一大尉はバタビア裁判で死刑となっている。チデン収容所の死亡診断書・死亡者リストは、日本軍による資料の焼却を免れていることから、バタビア裁判の証拠となった。



3.女子収容所からの強制連行

●櫻倶楽部事件

最初に起きた「櫻倶楽部事件」の被告人青地鷲雄は、現地日本軍による指示によって1942年6月にバタビアにて、女性の給仕とサービス・ガールのいるレストラン「あけぼの食堂」を開店した。
1943年6月には軍政監部から、民間人の日本人(当時約1500人が在留)のための「慰安所」を作ることを命じられた。これが櫻倶楽部である。彼のパートナーであるリース・ベールホルストは憲兵隊の庇護のもとで、悪名高い収容所所長曽根のいたチデン抑留所の11名のオランダ人女性と、抑留されていないヨーロッパ系女性たちを「慰安婦」として働かせた事件が「櫻倶楽部事件」である。


●マゲラン事件

1943年に起こった「マゲラン事件」は1943年12月に「慰安婦」募集のために、マゲラン州長官(日本人)・憲兵隊長・日本人民間人がムンティラン収容所にて「慰安婦」にする女性の選別を行なっている。その翌年の1944年1月23日にムンティラン収容所の13人の女性がマゲランに連行された。これが「マゲラン事件」である


●スマラン事件

マゲラン事件の1ケ月後の1944年2月の終わりに起こったのが「スマラン事件」で、日本軍将校のための「慰安所」を作る為に起こった事件である。日本軍は収容所の女性を「慰安婦」にすることは国際法に違反していることを充分に知っての行為であった。その証拠に「あとで問題が起きぬよう、志願した婦女に一筆かかせたほうがいい」として、実際に女性たちに書類にサインをさせている(中身は日本語で記載されていたため、本人には内容がわかっていない)。つまり、強制ではなく本人の自由意思で「慰安婦」になったとしたのだ。

集めた女性の収容所は7ケ所であるが、スモウオノ、バンコン、ランペルサリの3ケ所では、リーダーたちの激しい抵抗によりあきらめている。ハルマンヘラ収容所では8名、アンバラワ第六収容所・第九収容所では、抵抗はあったが18名の女性が連行された。ゲダンガン収容所では、売春婦だったといううわさのあった10数人を連行した。
 集められた女性は約35名で、3月1日から、日本軍将校向けの「慰安婦」として将校倶楽部(経営者・蔦木健次郎)、スマラン倶楽部(同・古谷巌)、日の丸倶楽部(同・森本雪雄)、星雲荘(双葉荘)(同・下田真治)に入れられた。

突然1944年5月10日には、これらの3つの慰安所は閉鎖された。それは、4月末に東京から視察のために派遣された小田島大佐の元にアンバラヤ第九収容所の連れて行かれた娘たちの母親から直接の訴えがあったことからである。
小田島は若い女性を収容所から強制的に連行するのは国際法違反で、ジュネーブ条約の規定に抵触すると判断し、東京に報告する。ただちに閉鎖命令がきて、5月10日には彼女たちはバスでコタパリ収容所に移された。


●フローレンス島事件

この閉鎖命令の出る2週間前の1944年4月16日に、スマランの日本軍憲兵隊の命令により、警察署に100人~200人の女性が集められた。その中の20人の女性が選別されフローレンス島の慰安所に送られている。実際には17名が送られたが終戦まで「慰安婦」とされた。これが「フローレンス島」事件である。

フローレンス島に送られた女性たち以外の3件の事件の女性たちはコトパリ収容所へ収容された。そこで母親たちと再会している。その後、全員ではないがクラマト収容所へ移動させられている。日本軍は彼女たちを売春婦が収容されているクラマト収容所に入れることにより、強制売春の事実を隠す意図があったと考えられる。

蘭領印度が日本軍に降伏した1942年の頃の状況は、ヨーロッパ系の売春婦は100名ほどいたと言われている。しかし、性病の蔓延や廃業(彼女たちは日本人のオンリーになることを選んだ)などで、新たな女性が必要となった。日本軍は抑留所にいる2万人の女性の中から女性不足を解決するに充分な志願者がいるだろうと安易に考えたようだ。だが、結果としてこのような劣悪な環境の中で暮らしていても女性たちは自発的に「慰安婦」になるものはほとんどなく、強制連行という暴力のもとで「慰安婦」としたのだ。
 

戦後、収容所を出たオランダ人女性たちは蘭印印度で、以前の暮らしにもどれると考えていたようである。それを望むことはできなかった。祖国オランダに帰国したが、戦後の荒廃した祖国オランダでの生活は経済的にも精神的にも苦しいものであった。そこである者はオーストラリア、カナダ、アメリカなどへと新天地を求めて移住していった。
また、男性は1942年10月から1943年3月にかけて労働者としてタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道や日本国内の炭鉱山に労働力として移動させられている。(日炭高松、大正中鶴、日鉄二瀬、三菱下山田、住友忠隈、麻生吉隈、明治平山、三井山野、三井田川、古川大峰炭鉱など福岡の大手の炭坑)。

資料「バタビア裁判における慰安所関係事件開示資料」は戦後間もなく行なわれた裁判であることから、その証言は生生しい。
いまだに「慰安婦」被害者の被害に対しての想像力が中々働かないのが現状である。そして「性産業」で働く女性たちへの視線も冷たい。この資料でも分かることだが、「強制」「自発」「性経験の有無」「札つき女」「商売としての売春」といった一人一人の履歴が同じ被害を受けながらも区分されている。それは現在の「慰安婦」被害者や性暴力の被害者も同様である。そして買春した男性たちへの追求は甘い。

民族、身分の上下、置かれた環境に関係なく、「被害」の現実を直視して「慰安婦」制度を理解していきたい。この資料を読むことで、その理解の一助になることを望みたい。




「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(紀)






参考文献


インドネシア国立文書館編・倉沢愛子訳「ふたつの紅白旗」(1996)木犀社

梶村太一郎・村岡嵩光等「『慰安婦』強制連行」(2008)株式会社金曜日

倉沢愛子「日本占領下のジャワ農村の変容」(1992)草思社

佐治曉人「BC級戦犯裁判と性暴力(1)-『戦争犯罪裁判概見表』を手がかりに 2014年

須磨 明「バタビア裁判における慰安婦関連事件開示筆耕」(2014)国立公文書館蔵開示資料より筆耕

シャーリー・フェント・ヒュー 内海愛子解説「忘れられた人びとー日本軍に抑留された女性たちと子どもたち」(1998)梨の木舎

ジャン・ラフ=オハーン 倉沢愛子解説「オランダ人『慰安婦』ジャンの物語」(1999) 木犀社

立川京一「日本の捕虜取扱いの背景と方針」(2007)防衛省防衛研究所

永積 昭「オランダ東インド会社」(2000)講談社学芸文庫

ネル・ファン・デ・グラーフ 内海愛子解説「ジャワで抑留されたオランダ女性の記録」(1996)梨の木舎

林えいだい「インドネシアの記録―オランダ人強制収容所―」(2000)燐葉出版社

ペトルス・ブルンベルヘル・深見純生訳「オランダ領東インドにおける印欧人の運動」St..Andoreu,s Univesity

マルゲリート・ハーマー・訳 村岡嵩光「折られた花―日本軍『慰安婦』とされたオランダ人女性たちの声」(2013)新教出版社

モーリス・ブロール・西村六郎訳「オランダ史」(1994)白水社

吉見義明「従軍慰安婦」(1995)岩波新書

吉見義明「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ女性に対する強制売春に関するオランダ政府調査報告」(1994)戦争責任研究NO.4






                     
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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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