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インドネシアでの性暴力被害



インドネシア

(一) 雑誌「世界」(岩波書店)2000年12月号 特集・戦時性暴力 [資料]各国の「慰安婦」被害・年表・裁判 より引用(122p~123p)

戦時中の性暴力被害の特徴:古くから世界の香料貿易の中心地であったインドネシアの群島に、17世紀初頭オランダは豊かな鉱物・森林資源、石油、農産物などを求めて350年に渡る植民地経済支配体制を確立した。アジア太平洋戦争勃発後の1942年、この植民地支配体制を「大東亜共栄圏」に置き換え、戦争遂行に必要な資源を求めてインドネシア侵攻(1942年)したのが大日本帝国であった。日本軍はインドネシアを人的資源の拠点として位置づけた。その「人的資源」とは、「兵補」、「労務者」、そして皇軍「慰安婦」であった。戦争前に蘭領インドネシアを占領するために必要な「衛生上」の視察を密かに行った深田軍医少佐が、強かん事件や性病蔓延を防ぐためとして、「原住民は生活難のため売淫するもの多し。しかし、バンドンその他性病多きをもって、村長に割当て、厳重なる検査の下に慰安所を設くる要あり」と提言したように、「慰安婦」制度は日本軍の戦略の重要部分を占めた。軍政監部は強制的・詐欺的な手段を用いて女性たちを徴集する政策に事実上の了解を与えた。軍事作戦地域における大義なき軍政がこのような「労務」の強制徴用と奴隷労働を可能にしたと言えよう。(以下略)

次により具体的に「慰安婦」被害の実態と解放後の問題点、支援運動について
(二) 「日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録」4巻 第4章インドネシア「慰安婦」問題(296p~313p)を要約します。

被害者たちの証言 (ブログ:インドネシアの証言者たち)を分析してみると、
日本軍が女性を駆り集めた方法は物理的暴力の行使、騙しによるもの、恐怖心の扇動によるものなどが絡み合っている。15歳から17歳までの抵抗できない少女に集中している。(要約者注:マルディエムさんは13歳、スカンティさんは9歳で慰安所に送られている)
慰安所の形態は、日本軍駐屯地近くに住む女性たちが軍人に拉致されるなどして造られた慰安所、朝鮮、台湾の女性が連行され監禁された慰安所、オランダ人抑留所から若い女性が連行され監禁された慰安所(注1)、またインドネシア女性がフィリピン、ビルマ、シンガポールなど他の国々の慰安所に送られた例もある。
特筆すべきは、医師(軍医)が健康診断(性病検査)と称して女性たちを強かんするケースが多々見受けられる事である。また将校専用「慰安婦」が多く存在することはインドネシアの「慰安婦」問題の特質のひとつである。自分の将校官舎に専用の「慰安婦」を囲っていた。日本兵との間に生まれた子ども(注2)は保護されることなく、インドネシア社会から民族的差別を受けた。
「慰安所」からの解放後も、経済的基盤を失ったほとんどの被害者は貧困と社会的差別の中で生きてきた。被害者エミさんは解放後、帰還した里で「日本のパン屑」として蔑視され、近隣の人々によって家まで焼かれている。多くの被害者が身体的(性病、不妊症など)、精神的に後遺症を受けていたが、家族にも話せず、リハビリテーション、カウンセリングなど受ける機会が与えられなかった。

1992年インドネシアではじめて名乗り出た元「慰安婦」トゥミナさんの悲惨な経験が日刊紙『スワラ・ムルデカ』に掲載され、「慰安婦」問題がインドネシア社会で広く認識され始める。
翌年インドネシア法律扶助協会(LBH)が新聞紙上で被害者に対し登録をよびかけると、多くの被害者が名乗り出た。
しかしインドネシア政府は<独立>と<開発>を優先させ、被害者個人への補償でなく、高齢者福祉施設建設プロジェクトへの支援を求めた。これに対し日本政府は「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)を通し今後10年間に3億8000万円の「償い金」を支払う事で合意した。被害女性と支援者はこの合意に抗議声明を表明したが、2007年に「国民基金」は事業を終了し、「償い金」が公正に使われた証拠は提示されていない。

この項目を書くに当たって二つの参考文献を引用及び要約しました。
一つは雑誌「世界」(岩波書店)2000年12月号
二つ目は「日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録」第4巻(緑風出版)です。いずれも木村公一氏による執筆です。




現在のインドネシアにおける「慰安婦」問題は当ブログ(インドネシアにおける「慰安婦」被害者たちはいま)で紹介されているように、支援者による調査、被害者への支援、未来への記録を残すため、本の出版や映画製作などの活動が行われている。インドネシアは世界一多くの島々からなるため、個人や民間の組織が活動するには困難が伴うが、日本軍が進攻したところで起こった「慰安婦」被害が埋もれ歴史の闇に消える事のないように願いたい。


注1 この事件に関与した日本将兵たちは敗戦後バタビアにおいて裁判にかけられ、死刑を含む判決がくだされているが、インドネシア女性を「慰安婦」にした犯罪について、日本将兵が裁かれたという資料はいまのところ見あたらない。

注2 将校坂部康正は「この戦争で東南アジアに残された日本人混血児は3万人と称せられる」と記している。(阪部康正「アンボンは今」海軍経理学校補修学生第10期文集刊行委員会編『滄溟』同委員会、1983年、312p)






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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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