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インドネシアにおける「慰安婦」被害者たちはいま

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インドネシアにおける「慰安婦」被害者たちの多くが他界しつつあるいま、インドネシアではこの忌まわしい歴史の記憶とその継承を目的とした草の根の運動が、徐々にではあるが様々な人々へ受け継がれている。被害者たちは確実に地上から去っていくが、それは新しい世代へのバトンの継承として理解できる。時の流れは被害女性たちの歴史を忘却の彼方に押し流すが、日本軍性奴隷制の歴史は、良心の記憶を想起する人々によって語り継がれている。ここに「被害女性たちの今」を四つに分けて報告したい。

南スラウェシ州における元兵補の子息ダルマウィ氏が中心となって、「元慰安婦被害調査協会」を立ち上げ、かれらの父親たちが始めた仕事を完成させようと、被害者たちに対するより詳細な調査を行った。「被害者証言リスト」(2005年)には南スラウェシ州だけで1634名の被害者が登録している。この運動には関西の良心的な市民団体が協力していると聞いている。被害者の多くが既に他界しているなかで、生存者のひとりヌラ(ブキス郡出身)さんは、13歳のときの悲惨な経験を証言している。彼女は3人の学友と登校する途中で、トラックから飛び降りてきた日本兵らによって誘拐され、慰安所で12か月間にわたる性暴力を受け続けた経験をもつ。

ジャワから数十人の娘たちが日本軍に連行されて2000kmも離れたブル島(東インドネシア)に連れてこられたのが1944年のことであった。
日本が敗戦すると娘たちはブル島に置き去りにされた。脱走を試みた娘たちは島の住民によって連れ戻され、それぞれが島の男たちに「娶られて」いった(プラムディア・アナンタトゥール『日本軍に棄てられた少女たち』山田道隆訳、コモンズ)。2008年4月、エカ・ヒンドラらによってブル島の「慰安婦」被害の実態調査が行なわれ真相がかなり明らかにされた。その結果、ブル島の「慰安婦」被害者たちの老齢福祉のために、インドネシア社会省が月定給付金を与えることになった。

ソロにおける「慰安婦」被害者の写真展「ジャワの娘たち(Nona Jawa)」が写真家メイシ・シトルス氏の協力を得て、2013年3月スジャトゥモコ会館においてに行われた。二週間にわたる写真展には多くの人がつめかけた。写真展の開催を呼びかけたのはソロの女性運動家ファニー・チョティマである。こうしてインドネシアの「慰安婦」理解は若い世代の活動家たちを加えながら、少しずつではあるが、確実にインドネシア社会の地層に浸透している。

中部ジャワ・ソロを中心に活躍している若手のドキュメンタリー映画監督のスティーブ・P・スティアブディにファニー・チョティマ、エカ・ヒンドゥラらの協力で『トゥミナ』と題するドキュメンタリー映画が撮影中である。これはインドネシアで最初に自らが「慰安婦」被害者であることを名乗りでたトゥミナ(1927-2003)に焦点があてられている。

彼女は1992年新聞記者であった甥の故ゴジャック氏にはじめて自らの過去を語り明かした(木村公一「インドネシアにおける皇軍慰安婦」『福音と世界』新教出版社1992年11月号、p.48-53)
彼女は地方紙「スワラ・ムルデカ」などを通して、社会に明確なメッセージを発信してきた女性である。「慰安婦問題と取り組む九州キリスト者の会」が中心となり、映画の撮影をかねて、トゥミナさんの墓石の建造に募金をもって協力した。映画の完成が待たれるが、日本語版の制作も私たちの課題となろう。 以上をもってわたしの報告とさせていただく。


 
(文責・木村公一)




                     
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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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