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ビルマでの「慰安婦」・性暴力被害 (ビルマは現在の「ミャンマー連邦共和国」)

ビルマは日本軍「慰安婦」問題の中でどのような地域だったのでしょうか?
ビルマ戦線の経過をたどることで「慰安婦」として戦場に送られた女性たちの被害を見てみたいと思います。



  一 ビルマ戦線

日本は日中戦争解決への見通しが立たない中、援蒋ルート(日本の侵略に対し重慶に首都を移し抵抗を続ける中国国民政府[蒋介石政権]を支援する英米の物資輸送ルート)の遮断と石油などの資源確保をめざして東南アジアへ侵攻します。東南アジアはイギリス、オランダ、フランス、アメリカなど欧米諸国の植民地となっており、日本は「大東亜共栄圏の建設」という名目を掲げ侵攻しました。しかし最終的には日本軍占領後のアジア各国は収奪と圧政に苦しみ抗日の傾向を強めていきました。


日本軍のビルマへの侵攻は1942年2月で、5月にはビルマ全土を掌握します。当時のビルマはイギリスの植民地だったため、独立を願うビルマ人義勇軍と共に「連戦連勝」といわれるほどの勝ち戦で首都ラングーン(現在のヤンゴン)に到達します。

日本軍はビルマへの物資輸送を目指し1942年7月にタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を始めます。工事は日本軍兵士の他、連合軍捕虜や強制徴用に近い形でビルマ人、インド人、インドネシア人、マレーシア人などの「労務者」を使い劣悪な環境の中で働かせ、膨大な犠牲者を出しました。(注1)




1943年、ビルマは日本軍政下で主権を著しく制限された形で「独立」を果たしますが、1945年3月にはビルマ国民軍は日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こします。ビルマ国民軍は日本軍に勝利したものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となり、1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立します。


1943年後半から、物量において圧倒的優位な連合軍が反撃を始めると日本軍はインパール作戦で大敗し「白骨街道」と呼ばれるほどの戦死者を出します。(注2)中国国境沿いの拉孟(らもう)や騰越(とうえつ)でも全滅し、ビルマの各戦線で敗退を続けます。日本軍兵士は飢えと傷病に苦しみ敗残兵となり、1945年8月の敗戦を迎えました。
ビルマで命を落とした日本軍兵士の数は16万人におよびます。(インパール作戦時、ビルマに投入された日本軍は30万を超えていました。)



二 日本軍慰安所

1942年前半にビルマ全土を手中に収めた日本軍はその直後から慰安所の設置を始めます。森川万智子氏によると、ビルマ側の証言、日本軍関係者の戦記などをもとに、「慰安所」があったと思われる現地を調査した結果(1995年~1997年)、33地域で確認でき、ラングーン、マンダレー、ラショーなどの都市には複数の慰安所がありました。日本軍は展開したほぼすべての地域に慰安所を置いていた事になります。


日本軍は朝鮮人女性のつぎに中国人女性、とくに広東人女性を多く連行しました。広東(中国南部)を占領していた部隊がビルマに転戦したためで、元日本兵の戦記にも「広東人」との記載は多く、台湾人女性が騙されて連行された例も語られています。


日本人「慰安婦」はおもに将校が相手でした。陸軍将校の集会所・社交場である偕行社や久留米から出張してきた料亭・萃香苑は、後方の兵站都市であるラングーンに置かれ、将校たちが芸者と遊興にふけっていたことが記録に残っています。


ビルマ人「慰安婦」

日本政府は1993年に『いわゆる従軍慰安婦問題について』(内閣外政審議室)を発表します。そこには「慰安所が存在していた地域」としてビルマは記載されていますが、「慰安婦の出身地」としてビルマ人は入っていません。(注3)
しかしビルマ人「慰安婦」の存在は日本軍資料、元兵士が書いた戦記や現地の人たちの証言で明らかです。


日本軍資料として「マンダレー駐屯地勤務規定」・別紙を見ると、軍指定慰安所5軒と軍准指定慰安所4軒が記載されています。准指定の4軒はいずれもビルマ人「慰安婦」でそのうち1軒は「ビルマ兵補専用」と記されています。(兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用した兵をさします。)(注4)

またシャン州のカローには兵食堂という航空隊専用の慰安所兼食堂があり、「慰安婦」は全員現地人であった、とあります。

森川氏の取材に応じた残留日本兵は「イエジーで慰安所をつくった・・・ビルマ人、カレン人や人種はいろいろあります・・」と証言しています。ビルマ人「慰安婦」が4,5人日本兵の相手をさせられていたのを目撃したビルマ人ウ・サンペ氏(元日本軍通訳)は「日本軍が警察署長に命令して、マンダレーから『売笑婦』を連れてきて、病気を治して『慰安婦』をさせた。朝鮮人『慰安婦』が到着するまでの短期間だった」と証言しています。


朝鮮人「慰安婦」

前述の日本軍資料「マンダレー駐屯地勤務規定」・別紙には慰安所の一覧表とその地図が記載されています。軍指定慰安所5軒のうち1軒は「内地人」(日本人慰安婦)で「将校慰安所」、「広東人」(中国人慰安婦)のものが1軒、「半島人」(朝鮮人慰安婦)のものが3軒と記載されています。朝鮮から連れてこられた女性が多い事が分かります。


また「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」は1944年ビルマ・ミッチナ陥落後捕虜となった朝鮮人「慰安婦」20名と日本人業者2名の尋問報告書です。1942年7月総勢703名で釜山を出港した事や慰安所の規則、待遇などが語られています。(注5)


当ブログの「軍『慰安婦』の報酬はどうだったか」に文玉珠(ムン・オクチュ)さんの軍事郵便貯金についての説明があります。文玉珠さんは植民地朝鮮出身で18歳の時「軍隊の食堂で働くと金儲けができる」と騙されて、ビルマに送られました。彼女の証言から釜山港を 1942年7月に出発し、ラングーンに到着する経路などから上記「日本人捕虜尋問報告 第49号」で述べられた朝鮮人「慰安婦」703名のなかの一人であることがわかります。



三 ビルマ人女性に対する性暴力

日本軍は英国からの独立運動を支援するため南機関を組織し諜報活動を行います。
その作戦の一環としてビルマ人女性との「結婚」を奨励します。民間人を装い村の女性と結婚し、怪しまれることなく情報を収集し終えると、理由をつけて村を去り、女性や子どもたちが取り残されました。ビルマには外国人男性と関係をもった女性を揶揄する歌が残っており、戦後ながく周囲の人々から蔑視されていたのでしょう。


ビルマ国軍は日本軍をまねて将校用慰安所をラングーンに作りますが、内部に反対意見が強く、早々に閉鎖します。ビルマ独立運動家にとって、強制をともなう「慰安婦」は自分たちの女性観に馴染まなかったと考えられます。


強かん事件の多発はビルマ側、日本側双方の資料に記載されています。
ビルマ側資料には、強かんをしている日本兵にたいしてビルマ義勇軍や村民が立ち向かい攻撃した記録が残っています。特徴的なのは日本兵による性暴力が1942年から1943年にかけて日本軍が勝ち戦をしていた時にはびこり、敗走が始まると、飢えや病気で倒れ、野たれ死んでいった日本兵をビルマの人たちは「最後はかわいそうだった」と表現している事です。


一方日本軍上層部は多発する略奪、強かん事件を防止する目的で「対住民犯の原因、態様、防止対策等」(注6)として詳しく分析し、兵に対して犯罪防止を呼び掛けます。しかし強かんは止むことはなく、その「態様」に書かれた具体例は極めて悪質で実態はいかに酷いものであったかを示しています。



四 日本軍敗退の中での「慰安婦」

ビルマでの特徴は軍と行動を共にせざるを得なかった「慰安婦」たちが、連合軍の圧倒的な攻撃をうけ、敗残兵とともに山野を逃げまどった事です。インパール作戦の大敗以降ビルマ全土で日本軍の敗走が続きます。記録に残っているいくつかの例を見てみます。


● キャクセ他、米英印連合軍の空襲や日本兵の手榴弾による自決の際、巻き添えで爆死。

● 中国国境の騰越で竜師団2800名が全滅したとき、軍服を着た「慰安婦」たちはにぎり飯をつくり配るなどして、戦闘に参加させられるが結局置き去りにされる。

● 拉孟でも部隊は全滅したが、「慰安婦」たちはワンピース姿で負傷兵を世話し、多くが死亡。脱出できたわずかな人数が連合軍俘虜収容所に送られる。

● 最後の決戦場となったペグー山脈で、敗走中の日本兵とともに、豪雨の中を飢えと病気にさいなまれ、ある者は置き去りにされ、ある者はシッタウン河に流された。軍票を風呂敷に包み腰に巻いて河に入り、必死に流されまいとする「慰安婦」を目撃した兵士は多い。ペグー山脈では28人の中国人「慰安婦」が置き去りにされるが、ビルマ人村長に見つけられ、連合軍俘虜収容所に送られた。

軍服を着、丸坊主に軍帽をかぶり、肩に天秤棒をかつぎ、前後のカゴに赤ちゃんを入れて、山中を逃げる「慰安婦」を見た。

戦後かろうじて全滅部隊から生還した元日本兵は、見捨てられ自殺した人、日本刀で刺殺された人、飢えて死んだ人など記憶に残る「慰安婦」の最期を語っています。


おわりに

ビルマでの「慰安婦」問題はまだまだ解明されていない部分が多く、1990年代初頭各国で「慰安婦」の名乗り出があり、支援団体ができる中で、ミャンマー(ビルマ)では動きがありませんでした。

今回この解説を書くにあたって森川万智子氏の資料を参考にしましたが、森川氏も指摘されているように調査当時の軍事政権下では制約があり調査が中途であると、断られています。

2013年8月7日、毎日新聞にビルマとシンガポールの慰安所で働いていた従業員の日記が一部公開されました。今後も資料が発掘され、日本軍慰安所制度がさまざまな角度から解明される事を願います。



「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(明)






(注1) 建設の作業員として日本軍兵士1万2000人、連合軍捕虜6万2000人(うち約1万2000人が死亡)現地労働者の正確な数は不明だが、30万~40万ともいわれている。当初5年掛かると言われた難工事を1年4カ月で敷設。犠牲者は数万人から総数の約半分と言われるほどで、戦後、連合軍俘虜収容所の関係者らが、BC級戦犯として戦争犯罪に問われた。

(注2) イギリス軍の最前線基地インパール(インド領)を攻略する作戦で連合軍の反撃を食い止め、中国国民政府への援助を遮断する事を目的とした。1944年3月、8万余の兵を投入します。しかしインパールを攻略するためには、チンドウィン川を渡りアラカン山脈を踏破する必要があり、人力で運べる武器、弾薬、食糧しか持たず、補給のない日本軍は連合軍の猛反撃にあい、雨季を迎えた密林の中で餓死と病死者を続出、戦死者3万、戦傷病者4万人を出し壊滅的打撃を受けた。

(注3)いわゆる従軍慰安婦問題について(内閣官房内閣外政審議室)
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JH/19930804.O1J.html

(注4)政府発表文書にみる「慰安所」と「慰安婦」 -『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読む - 和田春樹著 23p

(注5)「従軍慰安婦資料集」吉見義明編 (大月書店)

(注6)烈第32師団10353部隊乗馬小隊の「教育ニ関スル書類綴」(昭和18年)
防衛庁防衛研究所図書館蔵

参考文献

・『日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録』 緑風出版
第4巻 第Ⅱ部 第5章 ビルマの「慰安婦」・性暴力被害 森川万智子著

・『ビルマ(ミャンマー)に残る性暴力の傷跡 - 日本軍慰安所について現地調査報告』
「従軍慰安婦」問題を考える女性ネットワーク 森川万智子著 (非売品)



           
                  
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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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