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ロラたちとの一期一会(1回目)

フィリピン在住の澤田さんからの「ロラたちとの一期一会」を連載するにあたって

 
 連続してフィリピンから投稿していただく澤田さんは、92年より来日されるロラ(フィリピン語でおばあさん)たちにいつも寄り添い、通訳をされています。
彼の通訳はロラの証言を途中で切らないということでは徹底しています。
どんなに長くてもロラに話したいだけ話してもらい、証言が切れたところでそれまでの全部を通訳されます。「神業」というよりも彼の優しさの本領だと思うのです。

彼は長く「まにら新聞」の嘱託記者として働きながら、ロラたちの活動に関心を持ち続けてきました。ロラたちの現在、ロラたちとの思い出やフィリピンでの支援運動のことなど連続して投稿していただきます。楽しみにしていてください。

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ロラたちとの一期一会(1回目)
澤田公伸
 

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フィリピン人元「従軍慰安婦」とその支援者からなる市民団体「リラ・ピリピナ」の毎年恒例のクリスマスパーティーが12月15日、首都圏ケソン市プロジェクト2の事務所兼資料センターで行われた。集まった被害女性のロラ(フィリピン語で「おばあさん」のこと)は9人。ロラたちの子どもや孫、支援者などを含め約50人が会場に集まった。

今年は、いつも自慢の歌を披露したり、愛情のこもった辛口批評をよく飛ばしていた故ロラ・ピラール・フリアスさんやダンスの名手で背筋をいつもピンと伸ばしていた故ロラ・パウラ・アティーリョさんらの姿がない。集まることの出来るロラがほとんど全員出席したものの、昨年よりさらにこじんまりとしたパーティーになった。

2013年はリラ・ピリピナが結成されて21年目。
毎年、仲間を次々と失い、体も不自由になっていくロラたちだが、パーティーのスピーチでは「これからも尊厳を回復するための闘いを続ける」「また、来年のクリスマスに会いましょう」「娘や孫たち若い世代にもっと真剣に運動にかかわって欲しい」などと、まだまだ力強いメッセージが飛び出した。しかし、リラ代表のリチェルダ・エクストレマドゥーラ(リッチー)さんは「来年は果たしてこのパーティーが開催できるかしら」と不安ももらす。

リラ・ピリピナは今、確かに岐路に立っている。
私自身もロラたちとのこれまでの交流を今のうちに文章にして残しておきたいという気持ちが強くなってきた。福岡の知人から受けた投稿依頼を渡りに船とばかりに、ロラたちと「一期一会」のごとく共有した貴重な思い出やリラ・ピリピナの歴史を何回かのシリーズで紹介したい。


(1)フィリピンで最初に名乗り出たロラ・ロサさんとの出会い

 私がフィリピンの日本軍性奴隷被害者のロラと最初に出会ったのは1992年12 月に京都で開かれた証言集会だった。大学でフィリピン語を専攻していたこともあり、知人から通訳の依頼を受けた時は簡単な気持ちで引き受けた。しかし、底冷えのする京都の夜の集会でロラ・ロサ・ヘンソンさんの口から飛び出た証言は自分の想像を絶するものだった。

自宅近くの森で日本兵にレイプされたこと、大戦中に抗日ゲリラ「フクバラハップ」のメンバーになり情報伝達や食料・薬品などの運び屋をしていたこと、その任務の途中だった14歳の時に日本軍に捕まり日本人将校に何度もレイプされ監禁されたこと、また、軍駐屯地にいた数人の朝鮮人慰安婦女性たちを目撃したこと、ゲリラの襲撃で日本軍駐屯地から命からがら助け出されたこと、などなど。

米軍がパンパンガ州に進駐した時のくだりでは、1945年1月●日午後●時●分ごろと細かい時間まで出てきてびっくりした。非常に鮮明な記憶に感銘するとともに、それまで聞いたことのなかった「性奴隷」被害の証言に興奮しながら通訳した。その興奮は集会が終わって電車に乗ってからも続いた。

私鉄電車や地下鉄で大阪にある実家に帰る途中、この証言を忘れまいと、自分の手帳に証言内容を一気に書き込んでいたのだ。手帳のページ何枚にもかけて、ロラの証言を反すうしながら、まるで何かに憑りつかれたように書き込んだのは、彼女の証言が日本とフィリピンの間に横たわる、忘れてはならない重要な歴史の一部に違いないと、その時、直感で感じたからに違いない。

 後で知ったのだが、金学順さんがこの前年の1991年8月に初めて慰安婦被害を名乗り出て、アジア各地の女性団体がソウルに集まり国際会議を開催した。その時、フィリピンからも女性NGO連合体のガブリエラなどの市民団体の代表らが参加した。
金学順さんと同じような性奴隷被害を受けた女性がフィリピンにもいるに違いないと確信したガブリエラなど市民団体7団体は、92年7月に「フィリピン人従軍慰安婦問題協議会」(TFFCW)を結成。ラジオやテレビなどで被害を名乗り出るよう訴えたところ、92年9月に最初に名乗り出たのがロラ・ロサさんだった。

首都圏パサイ市で洗濯婦として暮らしてきたロラ・ロサさんがラジオやテレビで「恥ずかしがらないで名乗り出て。悪いのは日本兵であってあなたではない」と呼びかけると、首都圏を中心に国内各地で被害女性たちが名乗り上げた。

その数はすぐに170名を超えた。ロラ・ロサは、自分たちの日本政府に対する要求をなかなか認めようとしない当時のコリー・アキノ大統領が執務を取るマラカニアン宮殿前での抗議集会や、日本政府を相手取った東京地裁での提訴手続きなど、いつも重要な局面で先頭に立って運動を引っ張った。彼女の手記は日本語にも訳されて出版され、フィリピンの慰安婦問題や女性の置かれた状況を知る上でも貴重な第1級の資料となっている。

 私自身はロラ・ロサさんとは個人的にあまり付き合いがなかった。彼女と最後に話をしたのは、確か、例の「女性のためのアジア平和国民基金」(国民基金)を受け取った後の96年後半ごろに、日本人弁護士らと会合を持った時に通訳として同行した際ではないかと思う。その時のロラ・ロサさんは心労のためかかなりやつれていた。

同基金を巡っては、日本の基金関係者や基金に反対する慰安婦支援団体などによる様々な働きかけもあり、リラ・ピリピナの内部で受け取る被害者と受取りを拒否する被害者に二分された。最終的には、受け取り拒否派がリラから分裂して出ていってしまうという事態になった(この時に分裂して出て行ったロラも多くがその後、リラ・ピリピナに復帰している)。ロラ・ロサさんは同基金の受け取りを決意したため、様々な圧力や批判を受けていたに違いない。昔よりさらにかすれた声で「今回のことはご免なさい。でも、私も生活のために受け取らざるを得なかったのよ」と力なく訴えるロラ・ロサさんの体は、前よりも小さくなったように感じられた。

結局、ロラ・ロサさんは翌年に心臓発作でなくなられた。国民基金を受け取ってからはリラの活動からほとんど離れられたが、彼女が性奴隷被害者として最初に名乗り上げたことで、他の多くの女性たちが背中を押されてリラ・ピリピナに参加し、正義を求める闘いを形作ることになった。フィリピンにおける慰安婦問題と女性に対する暴力の撤廃を求める今日の女性運動の大きなうねりを作り出す起動力の一端になったのは間違いないだろう。

澤田公伸 (つづく)





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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