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沖縄戦での日本軍「慰安所」と「慰安婦」



本土防衛のため「捨て石」にされた沖縄 


アジア太平洋戦争末期の沖縄戦とは、日本国の「国体(天皇制)護持」のため沖縄を「捨て石」として、日米が展開した地上戦でした。住民にとって実に過酷なもので、その被害はさまざまでした。

沖縄戦による同県人の死者数は、住民94,490人、軍人・軍属28.228人、総数122,718人で、当時の沖縄の人口491,812人(沖縄県人口統計資料)からすると4人の1人という犠牲者を出しています。(注1)

男子は防衛隊、少年少女は義勇隊、中学生は鉄血勤皇隊、女学生は従軍学徒看護隊として戦場に狩りだされました。日本軍は住民をガマ(洞窟)から追い出したり、スパイという口実で住民を虐殺する事件もありました。集団自決により家族、近隣の者同士が殺しあう悲劇も起きました。
   
また、日本軍は慰安所設置を本格化させ、全島に慰安所をつくり「慰安婦」にされた女性たちも戦闘に狩り出しました。彼女たちの被害はどのようであったか追ってみます。



■146ヵ所もつくられた慰安所

沖縄の慰安所に関することは、1970年代から証言の聞き取りが始まり、80年代に入ってそれまでバラバラであった証言を集め、全体像を明らかにしようとする動きがでてきていました。それに拍車をかけたのが、91年、韓国の元「慰安婦」金学順さんが「私が生き証人だ」と名乗り出たことです。これに衝撃を受けた沖縄の女性史研究家や女性グループは、92年「慰安所マップ」を作成し、94年の「報告書」で延べ130カ所(注2)の慰安所を確認しました。以降、この数字が通説になっていましたが、2012年、追跡調査によって146ヵ所が確認されています。(注3)

このように多くの慰安所が設置されたのは、中国から転戦してきた32軍(沖縄守備隊)は最前線の中国で慰安所をつくっておりその占領軍意識のまま沖縄に来たことだと浦崎成子氏は指摘しています。(注4)



■強姦防止策という口実

沖縄に駐屯する部隊の増加にともない女性への強姦事件が頻発しました。第32軍は「強姦ニ対シテハ極刑ニ処ス関係直属上官ニ至ル迄処分スル軍司令官ノ決心ナリ」(1944年)(注5)と警告したり、繰り返し強姦禁止命令を出しています。しかし、強姦は収まらず、住民の反感を買うようになり、軍隊への協力が得られなくなることを危惧した軍は、そのためにも慰安所設置を必要としたのです。

◎慰安所設置に抗議
 1944年夏、軍が慰安所の設置協力を泉守紀沖縄県知事(当時)に求めたのに対し、「ここは満州や南方ではない。皇土の中に、そのような施設をつくることはできない」と、泉県知事は拒否しました。(注6) 

渡嘉敷村では地元の女子青年団は、風紀が乱れる、“そのような女”と間違われたら困る、との理由で慰安所設置に抗議をしています。あなた方の身を守るためと説得されて、阻止運動には至りませんでした。他の地域でも住民が反発していたことが、第62師団(通称石部隊)の会報に苦情がきている、という記述から読み取れます。

しかし、日本軍は、一般女性を守るためというレトリックを用いて住民の説得にあたります。住民も子どもや女性を守るためには慰安所は必要だという意識にさせられました。



■民家などを接収して慰安所をつくる

沖縄に軍慰安所が最初につくられたのは、1941年、南大東島と西表島です。以降、後続部隊のため慰安所の場所と女性の確保に取りかかっていきます。

民家、料亭、旅館、公共施設、商工業施設などのほか、壕も慰安所にされています。もっとも多いのは民家の61ヵ所(92年調査時)。「部落でも一番か二番の金持ちの家を使っていた」(糸満市女性)など住民の証言もたくさんあります。

糸満市では旅館や郵便局、名護市は料亭、浦添市では病院、集会所など、沖縄市ではサカナヤー(料理屋)が軍専用の慰安所になっています。琉球王朝の子孫尚王家の別荘、検事正官舎も接収されています。また、住民が避難壕としていた天然のガマ、避難壕も使われていました。住民の証言(玉城村など)も多くあります。

「慰安婦」にされたのは、どのような女性たちだったのでしょうか。



■日本軍「慰安婦」にされた女性たち

朝鮮、沖縄、日本本土、台湾などの女性たちです。推計すると1600人前後とされています。(注7) 内訳は朝鮮人女性約1000名、沖縄の辻遊廓出身が約500名、日本本土、台湾の女性も若干いたとされています。女性たちの被害をみてみます。

◎辻遊廓のジュリ(遊女)が「慰安婦」にされた沖縄
独自の伝統で維持してきた辻遊廓(注8)の女性(ジュリ)たちが、「慰安婦」として狩り出されました。1944年夏、副官が辻の事務所にアンマー(遊郭の女主人・抱親)たちを集めて、「わしの部隊には慰安所がない、慰安婦も兵力じゃ・・・・」など切り口上でぶったなど、当時の様子を山川泰邦の「従軍慰安婦狩り出しの裏話」(注9)のなかにみることができます。

その辻遊廓は同年10月10日の米軍の空爆で焼失し、ジュリが「慰安婦」として狩りだされました。ジュリであった上原栄子さんは自伝『辻の華』戦後編上(注10)に空襲時のこと、空襲後、壕に逃げ込み「遊女看護婦」として給水部隊に配属され、戦場を逃げ回った体験を綴っています。

◎拉致によって私的「慰安婦」に
軍部の「慰安婦」徴用以外で、女性を拉致して私的「慰安婦」にした性犯罪の事実もあります。ただ、性犯罪被害についてはタブーで、ほとんど語られることはありませんが、「沖縄県警察史第二巻」(1993年)に、軍による性犯罪被害者の記録があります。そのうちのひとつが、1972年メディアで取上げられ話題となった「久米島事件」(注11)の当時16歳の少女のケースです。1944年10月10日の那覇空襲を逃げ延びて久米島に帰った少女は、K曹長から拉致され、彼女は妊娠、曹長が帰還した後、出産しました。(K曹長は彼女を”私的慰安婦”としたことを認めているが、犯罪としては立件されていない)

◎第32軍司令官壕にも女性たちがいた
第32司令部は沖縄決戦に備え、1944年12月から首里城の地下に司令部壕を構築しました。南北総延長は1キロ超える大規模な壕で、1000人以上の兵士のほか、タイピスト、看護婦などの軍属の女性(36名)、娼妓(26名)、芸者(13名)など75名の女性がいたとの記録があります。
「壕の中で長参謀長が女の子の肩を抱いている様子をチラッと見た、側に牛島司令官もいたと覚えている」など複数の人たちが壕内の女性たちの具体的な姿を語っています。(注12) 

その他、福岡、長崎からきた日本人「慰安婦」がいたという証言や西表島(白浜慰安所)に、台湾からきた日本人女性が7人いたという記録がありますが、詳しいことは判っていません。
  
沖縄戦を生きのびた彼女たちのほとんどは戦後も沈黙を守っています。市井の人々の冷ややかな視線が、彼女たちの口を閉じさせています。
           
◎置き去りにされた朝鮮の女性たち
「日本に行けばお金が儲かる」「洋裁が習える」など甘言にだまされて連れてこられた朝鮮人女性は41ヵ所の慰安所に振り分けられ、軍人や住民は、彼女たちを朝鮮ピー(朝鮮人慰安婦の蔑称)と呼び、慰安所を”ピー屋”といっていました。住民は、色白の若い女性たちの姿を遠巻きに見て(外出・接触禁止されていた)興味の対象としていました。彼女たち自身による証言記録はほとんどなく、住民や兵士たちの証言などから想像するしかありません。

はっきりしている一人が、集団自決で知られている渡嘉敷島に連れて行かれた裵奉奇(ペ・ポンギ)さんです。1975年に外国人在留許可の必要性から、やむをえず慰安婦であった過去を明かすことになったのでした。「アキコ」という源氏名で呼ばれ、「性奴隷」としての体験は、「絶え間なく頭が痛くって、包丁で、もう、首を刺したい気持ちにもなる」と、終生ひどい頭痛に悩まされ続けました。戦後も沖縄に留まり1991年77歳の生涯を閉じています。(注13)

朝鮮籍の女性たちに関しては、日米の公式記録が3点あり、その中の米国公文書館所蔵の「沖より本国送還朝鮮人女性乗船名簿」には、147名分の朝鮮人女性の本籍と氏名があるとされていますが、(注14)何名生きのびて帰国したかなどは不明です。

◎台湾の女性もいた
宮古島に朝鮮人女性と一緒に台湾女性も連れてこられていました。台湾女性団体の聞き取り調査(1992年)において宮古島、八重山から帰還した台湾女性の証言がありますが、台湾の女性に関することは、ほとんど解明されていません。

 
いずれにしても沖縄・日本本土・朝鮮・台湾女性たちは、日本軍「慰安婦」制度の被害者であることは、数々の文献や証言などで明らかです。




■沖縄戦の史実認識を

日本軍敗退後は、米軍占領下におかれ、今度は米兵による強姦事件が多発しました。本土復帰なお41年経っても米兵による性暴力事件は後を絶ちません。橋下徹大阪市長による「戦後、沖縄の女性が防波堤となり進駐軍のレイプを食い止めてくれていた」(2013.6.25浦添市)との暴言は、長年にわたり、重苦を押し付けている沖縄を貶めるものでした。

現在も、米軍兵士による性暴力、基地があるための事故や騒音の恐怖に晒され続けています。日本本土の沖縄差別、民族差別、女性差別をむき出しにした沖縄戦の史実をきっちりと認識し、わたしたちは語り継いでいく責務があります。


「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(鶴)







[脚注]

1)沖縄戦データ館 http://hc6.seikyou.ne.jp/okisennokioku-bunkan/ 
県平和祈念資料館  http://www.peace-museum.pref.okinawa.jp/heiwagakusyu/kyozai/qa/q2.html
沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は掴めていない。一般住民の戦没者数は約15万人ともいわれ、その数はばらつきがみられる。ここでは、1950年の沖縄県援護課の発表を参考にした。

2)浦崎成子「沖縄戦と軍『慰安婦』」P98 『日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の全記録』第3巻 VAWW-NET Japan編 緑風出版 に「延べ数で130ヵ所」と記している。延べ数とは、軍隊の移動にともなって慰安所も移動するので、例えば、A地区にあった慰安所が連隊とともにB地区に移動した場合、AもBも加算されることになり、厳密にいえば、実数とズレが生じるが、慰安所があったことを示す数字として、ほとんどが「130ヵ所」となっている。

3)『軍隊は女性を守らない~沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料室(wam) 2012年 P15  慰安所調査・研究は、沖縄の運動家や女性史研究者によって陣中日誌、文献や証言などを精査し1992年の段階で121ヵ所、94年130ヵ所 2012年146ヶ所と段々と明らかになってきた。

4)前掲 「沖縄戦と軍『慰安婦』」P97 

5)吉見義明 林博史 共同研究『日本軍従軍慰安婦』 1995年 大月書店 P129 

6)前掲「沖縄戦と軍『慰安婦』」P96
 
7)前掲『日本軍従軍慰安婦』P131

8)1881年沖縄県は「貸座敷並娼妓規則」を定め、1908年に仲島、渡地(わたんじん)にあった遊郭が辻に合併し、辻遊郭となる。辻遊郭は、1934年(昭和9年)頃には176軒以上が建ち並び、各要人の社交場として、県の財政を支えるほど活況を呈した。女性だけで経営され、ジュリ(沖縄の芸娼妓)たちは、借金のかたに「アンマー」(おかあさん)と呼ばれる廓の主人に買い取られ、擬似親子関係を結び、礼儀作法や芸事を仕込まれる。しかし、前借金に加え、独立の際は「倍返し」で恩義に応えるという慣習に拘束された。

9)『群星』沖縄エッセイストクラブ 1984年 P330

10)時事通信社1989年 上原さんは4歳の時に那覇市の辻遊郭に身売りされ、抱え親と疑似親子を結びジュリになる。戦後は実業家として辻遊郭を再建しようと奮闘、ジュリの「成功者」として語られることが多い。

11)久米島事件 久米島に米軍上陸後、住民や家族、関係者ら二十人前後がスパイ容疑などで旧日本軍によって虐殺された事件

12)前掲 『軍隊は女性を守らない』P17 

13)川田文子『赤瓦の家~朝鮮からきた従軍慰安婦』 筑摩書房1987年 裵奉奇(ペ・ポンギ)さんの半生を忠実に辿ったドキュメント。

14)前掲 「沖縄戦と軍『慰安婦』」P113




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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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