「慰安婦」問題における軍や国の「強制」をどのように考えるか

はじめに


 日本軍「慰安婦」問題は、今や日韓の最大の外交課題となり、首脳会談も開かれない断絶状態に陥っています。それ以上に深刻なのが「慰安婦」問題の解決と歴史認識を巡る対立が、両国のナショナリズムを高め、双方の国民の間に相手国への嫌悪感が広がっていることです。

 このような背景の一つに、日本国の「慰安婦」問題への歴史認識である河野談話が外交的な解決を急ぐあまり、資料収集と実態調査が不十分なまま書かれてしまったことにあります。「慰安婦」問題の解決を求める私たち(今後は「肯定派」と略称)には、軍「慰安婦」制度としての主導的な軍と国の責任の解明が不十分であった恨みを残しました。「慰安婦」問題への軍と国の責任を否定する側(今後「否定派」と略称)には外交圧力に屈して強制連行を認めたとする恨みを残しました。

 河野談話以降もアジア一帯に広がった慰安婦被害者からの聞き取り調査や、新たな資料の発掘が進み、軍「慰安婦」制度の解明と軍と国の責任が一層明らかになってきています。このような成果をできるだけ踏まえまえながらこの文章を書いてみました。
 また肯定派も否定派も、ともすれば資料を自分の都合の良い部分だけ取り上げて主張する傾向があり、感情的な対立が先行するきらいがあります。この文章では否定派が取り上げる資料にもできるだけ言及しながら、軍や国の責任を構造的に明らかにするように試みました。


文章の展開は以下の通りです。

目次
一 国と軍の責任を否定する安倍首相や橋下大阪市長の言分

二 韓国社会の「慰安婦」徴集に関する歴史認識と河野談話に至る経過

三 「慰安婦」問題の国の責任を否定する人たちの歴史認識

四 国内外の公娼制度廃止の動きに逆行する軍慰安所の設置

 ①公娼制度廃止運動
 ②国外での売春禁止令~からゆきさん~
 ③上海の海軍慰安所に騙して女性を連れ出した長崎の業者に有罪判決
 ④不良分子の渡支を禁止

五 国民に知られないよう極秘に進められた軍「慰安婦」制度の設立
―副官通牒の本当の意味―

六 公娼制度と「慰安婦」制度~国家と性の関係の大転換

七 「慰安婦」募集の実態~強制連行はあったのか?

①植民地朝鮮では、そして「内地」では
②戦地・占領地では
③まとめ

八 「強制」の本質は慰安所で性奴隷状態に置かれたこと

九 国は責任の主体を明確に

 




一 国の責任を否定する安倍首相や橋下大阪市長の言分

 安倍首相や橋下大阪市長は以前から、「慰安婦」問題に対する日本国の責任を否定してきました。そして、日本政府の「慰安婦」問題に対する公式な見解である河野談話を修正したい意向を示していました。
 第1次安倍内閣の時、「同日(註:1993年8月の河野談話発表)の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」(2007年3月16日)という見解を閣議決定し、強制連行の否定を図ります。

 この見解を背景に、橋下大阪市長は今年5月の物議をかもした記者会見で、「日本は国をあげて強制的に『慰安婦』を拉致し、職業に就かせたと世界は非難している。だが2007年の閣議決定では、そういう証拠がないとなっている」とのべ、この発言をいまだ撤回していません。

 この部分に関して河野談話はどのように述べているのでしょう。
「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれにあたったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲が直接にこれに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」(数字は引用者がつけている)と述べています。



 安倍首相や橋下市長、そして右派論壇の人たちは
 ①と③は業者がやったことで軍や国に責任はない、
 ②を裏付ける資料がないので軍や国に責任はない

として、河野談話からの部分を削除し、国や軍の責任を否定したいわけです。



このように「慰安婦」問題への軍や国の責任を否定する人たちの声が大きい原因の一つに、日韓の外交課題になった1990年代初頭の「慰安婦」徴集を巡る歴史認識の混乱がありました。まずはそのことを見ていきましょう。


 
二 韓国社会の「慰安婦」徴集にたいする歴史認識と河野談話に至る過程


韓国社会では「慰安婦」は挺身隊として強制連行されたと認識されていました(註1)。「慰安婦」問題の最初の本格的な研究者と見なされている千田夏光氏は1973年『従軍慰安婦』(双葉社)を出版し、その中で「1943~45年まで挺身隊の名のもとに若い朝鮮人女性約20万人が動員され、うち5~7万人が慰安婦にされた」と書かれています。この本は韓国や日本での「従軍慰安婦」に関する歴史認識に大きな影響を与えます。

 さらに1983年、吉田清治氏が『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(1983年三一書房)を出版し、戦前下関の労務担当として済州島にわたり、軍人と共に女性を暴力的に奴隷狩りのごとく連行した生々しい様子を書きます。この本は1989年には韓国語に翻訳され、韓国社会の「慰安婦」問題に関心のある人たちやジャーナリストの間で読まれていきます。その結果、「慰安婦」は挺身隊として軍により奴隷狩りのように強制連行されたという認識が広がりました。


 「慰安婦」問題で日本政府の責任追求にのり出した韓国の女性団体が、挺身隊問題対策協議会という名称であるのが端的にその時代の認識を表しています。   

 1991年8月 韓国の金学順さんが元「慰安婦」としてカムアウトし、12月に東京地裁に提訴するに及んで、日本社会も大きな衝撃を受けます。1992年1月朝日新聞が軍の関与を示す資料を発表し、その直後に宮沢首相が訪韓します。訪韓の直前に韓国で、日本の軍需工場に動員された元女子勤労挺身隊の人々が在籍した国民学校(小学校)の学籍簿が公開されます。韓国の新聞各紙が「12歳の少女たちが慰安婦として強制連行された」と間違った事実をセンセーショナルに報道し、韓国社会に憤激が渦巻く中での首相訪韓でした。韓国で宮沢首相は謝罪し、真相究明を約束します。

 7月には加藤官房長官が真相究明の中間発表を行い「強制連行の資料はなかったが、慰安所の設置や運営・監督に政府が関与していた」ことを正式に認めます。この談話を「強制連行はなかった」と受け取った韓国社会の猛反発をうけ、韓国政府は「日本政府による慰安婦の威圧的連行があつた」と主張し再調査を求めます。
 1993年8月、被害者16人からの聞き取りや、慰安所関係者からの聞き取り調査を経て、日本政府は官憲による強制連行を部分的に認めた河野官房長官談話を発表しました。

 挺身隊と「慰安婦」は別であることは当ブログ(註1で明らかにしたとおりです。また、吉田清治氏の本がフィクションであり、済州島での奴隷狩りのごとき強制連行は嘘であったことは今では明らかになっています。こうしたことが明らかになるにつれ、「軍や国による強制連行はなかった、河野談話は韓国政府の圧力に屈した政治的妥協の産物である」とする主張が保守論壇によって精力的に流布され、日本国内に広がっていきました。


 
では本当に、軍や国の責任はなかったのでしょうか?



三 「慰安婦」問題への国の責任を否定する人たちの歴史認識


否定派の人たちに共通する歴史認識は、

〇慰安所は当時合法であった公娼制度の延長である。

○植民地朝鮮での誘拐のごとき連行は朝鮮の業者がやったことで、国や軍の責任ではない。

〇軍や国は、戦地での移送や建物の便宜を与えたに過ぎない。むしろ業者による誘拐や慰安所でのあくどい収奪をさせないように良い関与をした。註2陸軍「副官通牒」)

〇慰安所での慰安婦たちの生活は楽しく、高給取りで「性奴隷」などとはとんでもない。(註3~この件に関しては当ブログですでに検証済みです。)
というものです。以上のような歴史認識は誤ったものですが、日本社会に相当広くひろがっているのも事実です。



 以下に彼らの歴史認識の間違いをできるだけわかりやすく検討していきたいと思います。



四 国内外の公娼制度廃止の動きに逆行する軍慰安所の設置


①公娼制度廃止運動

 公娼制度とは、国家や都市で一定基準のもとに女性の売春を公認し、売買春を適法行為とみなすことで、古くは江戸時代の吉原などの遊郭が有名です。明治期になり、人身売買が奴隷制度と批判されるにおよび(註4)、1872年(明治5)年に娼妓(売春に従事していた女性のこと)解放令を出して人身売買を禁止し、娼妓は前借金を棒引きにされて解放されました。しかし解放された女性たちは救済策もないまま路頭に迷い、結局「自由意思」で営業を希望する娼妓に場所を貸すという貸座敷制度として公娼制度が復活します。

この後も本人の意思で前借金をするという形で、事前にお金が払われる前借金制度(実質、人身売買)で新たに貧しい家庭の女性たちが売春を強いられていきました。1900年、内務省令で娼妓取締規則が施行され、各府県を通じて制度が統一され、娼妓の自由廃業がみとめられます(註5)。これを機に、公娼制度は大きく変わるはずでした。しかし、実際には多くの娼妓がこの法律自体を知らず、その後も娼妓廃業の自由は、前借金のために阻害されました。(註6)

 こうした公娼制度に「娼妓の存在は風俗を乱し、道徳に害をなす」、あるいは「人身売買と自由拘束の二大罪悪を内容とする事実上の性奴隷制なり」と批判する廃娼運動が広がっていきました。軍が慰安所を本格的に作り出す頃、公娼制廃止を求める県議会決議は22 県で採択され、公娼制を廃止した県も15 県に上りました。長沢健一元陸軍大尉が書いた有名な『漢口慰安所』(1983年 図書出版社)の中に、1939年7月「三重県に激しい廃娼運動が広がったため、余った娼妓200名の行き場がなくなり、11軍で引き取ることになった」という記述があります。国内で廃娼運動が激しく展開され、遊郭が次々閉鎖されていき、代わりに軍慰安所が広がっていった当時の状況がうかがえます。

 国際社会からも批判を受けて内務省警保局は1935 年には公娼制廃止案を提案するようになっていました。軍「慰安婦」制度ができた1930 年代において、すでに公娼制は当たり前ではなくなりつつあったのです。欧米では公娼制度廃止が大勢を占めていました。



橋下市長ら「慰安婦」問題での国=軍の責任を否定する人たちが、戦前の売買春は国内外で合法であり常識であったとする発言は、実は極めて非常識な認識なのです。



②国外での売春禁止令~からゆきさん~

 一方、日本国外で娼婦として働く「からゆきさん」(本来は「唐行きさん」と書き、唐とは外国のことを指す)が明治になって増えていきました。長崎県島原半島、熊本県天草諸島出身の貧しい農村や漁村の女性が多く、東アジア、東南アジアを中心にシベリヤ、北米、遠くはアフリカにまで連れていかれました。キリシタン農民を主力とする島原の乱以降の徳川幕府による圧政と、痩せた土地に覆われ農作物の実りが少ない貧窮した地域で、一家を助けるための出稼ぎとして、または斡旋業者(女衒=ぜげん)による「外国で金もうけできるいい仕事がある」などの甘言で国外に連れ出され、売春に従事しました。東南アジアなどの植民地にヨーロッパの軍隊が駐屯し、商人や船乗りたち、そして現地の人たちによる売春の需要が多かった地に遊郭が作られていきます。明治末期にその最盛期を迎えます。

 19世紀末のヨーロッパで女性・少女の売買に関する批判が高まり廃娼運動がひろがっていきました。1910年には、売春を禁止する国際条約が締結され、これを機にヨーロッパ諸国の植民地でも廃娼が広がっていきます。
 また、当時多くの「からゆきさん」を送り出していた日本も、日清・日露・第一次世界大戦の勝利を経て、国際的にも注目される国となっており、売春業に従事する女性を海外に送り出すということは「恥」として受け止めるようになってきました。言い変えれば、ヨーロッパ諸国からの非難をかわすことと、日本の外交的な体面を保つために、1920年の廃娼令(海外での売春禁止令)が制定されたといえるでしょう。



 その後、日本が実質的に支配している「満州」や上海には公娼制の延長である遊郭などが置かれていきました。


③上海の海軍慰安所に騙して女性を連れ出した長崎の業者に有罪判決

 1937年3月の大審院(現在の最高裁判所)判決で、1932年に長崎県の女性を甘言でだまして上海の海軍慰安所に連れて行った業者が刑法226条に基づき有罪にされました。
刑法226条は
 「帝國外に移送する目的を以て人を略取又は誘拐したる者は二年以上の有期懲役に処す(略取=暴力や脅しで他人を連れ去ること。)) 
帝國外に移送する目的をもって人を賣買し又は被拐取者(略取または誘拐されたもの)若くは被賣者を帝國外に移送したる者亦同じ」
という内容です。

 要するに、日本国外に連れ出す目的で誘拐や暴力で連れ去ったり、国外移送にたずさわったものは有罪とするという法律です。
 国外で軍慰安所が作られるのは1937年暮れですが、同年の3月に人身売買や誘拐、暴力で女性を国外に移送することが裁判所で有罪と確定されていたのです。

 軍が慰安所建設に乗り出す直前まで、警察は誘拐や人身売買による国外移送を厳しく取り締まっていたことがうかがわれます。
この刑法226条は植民地の朝鮮・台湾にも適用されていました。


④不良分子の渡支を禁止

 1937年7月から日中戦争が始まると外務省は、「不良分子の渡支に関する件」を各地方長官宛てに通達し、「混乱に紛れて一儲けせんとする等の無頼不良の徒の支那(中国)渡航は、このさい厳に之を取り締る必要あり」とします。(無頼不良の徒には売春業者も含まれています)
 以上のように、国内においても公娼制度の廃止運動がひろがり、国外での売春は禁止され、ましてや人身売買や誘拐の類で女性を国外に連れ出して売春させることには有罪判決が下されていました。このような時代の流れに反するかのように陸軍は中国での軍慰安所の大量設置に踏み出し、日本国内や朝鮮・台湾から大勢の女性たちを国外の戦場に連れ出したのです。


 
五 国民に知られないよう極秘に進められた軍「慰安婦」制度の設立
 ―副官通牒の本当の意味
この項と次項の多くを永井和著「日本軍の慰安所政策について」を参考にしています。



 これまで見てきたように公娼制度自体が国内外で廃止される流れにあり、ましてや国外での売春は基本的に禁止されていた時代に、国の機関である軍自らが売春施設をつくることは国内外からのひんしゅくを買うことは目に見えていました。こうした難題を国と軍はいかなる方法で乗り越えていったのでしょうか?



①野戦酒保規程の改正

日中戦争が始まった直後の1937年9月に、陸軍は「野戦酒保規程」を改正し、第一条に「必要なる慰安施設をなすことを得」という部分を加え、軍慰安所の設置をひそかに合法化します(野戦酒保とは、戦地において軍人軍属に日用品やうどん・酒などの飲食物を販売する施設)。
従来からの規定である3条・6条には以下の取り決めがあります。

第三条「野戦酒保は必要に応じ…大隊…五百名以上の部隊にこれを設置することを得……野戦酒保はこれを設置したる部隊長これを管理す」とあり、500名の大隊以上には慰安所を設置することができ、その管理者は設置者である部隊長であったことがわかります。(1942年7月には㊙の「営外施設拡充要綱」を定め、「中隊」=250人以上の部隊に慰安所を設置できるように変更して、第2次大戦開始以降さらなる大量設置時代に入ります。)

第六条「野戦酒保の経営は……請負によること得…酒保請負人は軍属として取扱い、一定の服装をなさしむるものとす。但しその人員は歩兵、野砲兵及び山砲兵聯隊に在りては三名以内、其の他の部隊にありては二名以内とす。」とあります。
慰安所を経営していた売春業者は軍の「請負商人」であり、そのうち2~3人は軍属扱いにすることができ、軍から与えられた軍服を着用できることがわかります。彼らが直接朝鮮や台湾で女性を集めると、被害者たちに軍人と見なされたのも無理はありません。
こうした野戦酒保規定改正にともない、中支那(上海や南京など中国の中部)方面軍司令部は12月には慰安所の設置を決定し、18日には中国人女性を集めて湖州に設置します(註7)


②内務省警保局長通牒

 一方で中支那方面軍司令部の慰安所建設の要請を受けて、上海領事館警察署長より3000名の「慰安婦」募集の依頼が国内の業者になされ、「軍に依頼された」旨各地で触れながら、慰安所で働く女性の募集をおこないます。こうした業者の言動が地元警察の知るところとなり、全国各地で混乱が起きます。

8月には不良分子の中国への渡航を取り締まる通達が出た直後に、不良分子が軍の名前をかたって売春のための女性募集に動きだしたと見なされたのです。各県の警察は軍の名前をかたった「不良分子」の詐欺、誘拐と見なし、尋問したり、逮捕します。業者を逮捕した和歌山県の知事は「時局利用婦女誘拐被疑事件に案ずる件」の問い合わせを内務大臣あてに出します(1938年2月7日)。高知県では募集の厳禁と女性の海外渡航に必要な身許証明書の発給をしない措置をとります。他にもこの前後に、群馬県、山形県、高知県、茨城県、宮城県などから内務省警察局や内務大臣・陸軍大臣あてに問い合わせが殺到します。

ところが、尋問した業者の話は嘘とも思われない内容です。かくして、各地の警察から、軍の慰安所設置政策への疑念と、もしそれが本当ならば、国民に知れて軍の威信が低下することになる懸念が寄せられます。こうした各県警察への返答として出されたのが、1938年2月の内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」でした。
「婦女の渡航は現地に於ける実情に鑑みるときは蓋し必要やむを得ざるものあり、警察当局に於いては特殊の考慮を払い実情に即する措置を講ずる必要あり」として、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じ、「慰安婦」の募集と渡航を容認したのです。  
一方で「帝国の威信をきずつけ皇軍の名誉をそこなう」ことなく、「銃後国民に出征遺家族に好ましからざる影響を与うる」おそれがないよう、軍が「慰安婦」募集をしていることが公にならないように秘匿・統制することを命じています。


また南京占領に伴う虐殺や強かんに対して国際的な批判が強い直後であることを考慮して、「婦女売買に関する国際条約の趣旨にもとること無き」ように実施する指令を出します。具体的には

〇現在内地に於いて売春に従事している21歳以上の女性で、性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認する。その際、契約期間(2年間)が終われば必ず帰国することを約束させる。

〇身分証明書の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行う(「自由意思」の確認)
〇親の同意書

婦女売買又は、略取誘拐等の事実がないことを確認して、海外渡航に必要な身分証明書を与えるとしています。建前として、当時の刑法・国際条約・公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとしたのです。さらに

〇「醜業を目的にして渡航せんとする婦女」の募集にあたって「軍の了解またはこれと連絡があるが如き言辞其の他軍に影響を及ぼすが如き言辞を弄する者は総て厳重にこれを取り締ること」

〇「募集周旋等に従事する者に付いては厳重なる調査を行い正規の許可または在外公館の発行する証明書等を有せず身許確実ならざる者にはこれを認めざること」とあります。


この通牒が取締りの対象にしたのは、業者が軍との関係を公言し、軍が慰安所を設置し、慰安婦募集をしている事実を国民に知らせることでした。「慰安婦」の募集はひそかに行われ、軍との関係は触れてはいけないとされたのです。自らが「醜業」と呼んではばからないことに軍=国家が直接手を染めるのは、体面にかかわる恥ずかしいことで、大ぴらにはできない極秘のことでした。
警察が業者に、募集の際に軍慰安所の事実を隠すよう指導したことが、「金がもうかる良い仕事」とか「兵隊の看病」などの誘拐に類した募集を誘導し、また騙された女性の出国を警察が黙認する下地になった可能性があります。


③陸軍副官通牒

 陸軍「副官通牒」は内務省警保局の方針を受けた陸軍省が、「慰安婦」募集の責任者ともいうべき中国派遣軍の司令部に、警察の憂慮を伝え、慰安所と軍の関係の隠蔽方針を周知徹底させるために出された指示文書でした。
通牒中の「募集の方法誘拐に類し警察当局に検挙取調を受くるものある等注意を要する」とは、募集の際に「軍による慰安所開設」を口にし、警察に誘拐と見なされた和歌山県の事例を指しています。

「募集等に当たりては派遣軍に於て統制しこれに任ずる人物の選定を周到適切にし其実施に当りては関係地方の憲兵及警察当局との連携を密にし以て軍の威信保持」とは、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にして軍との関係を隠して募集するように指示したのがこの通牒の眼目であったのです。
この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」とする人たちの認識は歴史的背景に無知な、ご都合主義の、間違った解釈であることがよくわかります。


もっともこのような遵守事項はきちんと守られなかったようで、2か月後の北海道の旭川警察所が21歳未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が公文書に残っています(註8)



六 公娼制度と「慰安婦」制度の違い~国家と性の関係の大転換

公娼制度の下では国家は売春を公認していましたが、建前としては悪習から抜け出せない人民を憐れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」とみなされていました。国にとっては、その営業を容認する代わりに、風紀を乱さぬように厳重な規制を施し、そこから税金を取り立てる生業でした。
慰安所を軍の施設として取り入れる政策により、軍は性欲処理施設を制度化し、政府自らが「醜業」とよんではばからなかった人道にもとる行為に直接手を染めることになりました。「慰安婦」は軍紀と衛生の維持のため必須と見なされ、性的労働力は広義の軍要員となり、それを軍に提供する業者は軍の御用商人になったのです。

 慰安所設置を直接担った一人・フジサンケイグループの創設者である鹿内信隆氏は陸軍経理部に入隊し、慰安所設置を学び、のちに設置に携わっていきます。『今明かす戦後秘史』(1983年 サンケイ出版 )で「その時に調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。…料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(「ピー屋」=軍慰安所)と書いています。

 中曽根元首相も海軍主計中尉時代にボルネオ島バリックパパンで慰安所を作ったことに触れています。「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』(文化放送センター、1978年)と。 このように早稲田や東大卒などの将校(今でいえば財務省に入る様なエリート国家公務員)が慰安所設置と経営に携わっていき、戦後もそのことを恥じるモラルを欠如したまま放言し、政財界のトップに君臨してきたのです。国家自らが、政府構成員のために売春宿を設置することは異様なことでした。第2次世界大戦において軍専用の売春施設を設置した他の国は、ヒットラー率いるドイツだけであったことにもその異様な人権感覚の欠如がうかがえます。



 以下では、国と軍が「慰安婦」募集の際に国際条約に基づく「本人の自由意思尊重」を組織的に徹底できなかった実態を見ていきます。


七 「慰安婦」募集の実態~軍や国による強制連行はあったのか?

① 植民地朝鮮では、そして「内地」では
 1938年2月の内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」は植民地朝鮮には出された形跡がありません。日本政府は婦女売買に関する国際諸条約に加入する際に、植民地除外規定を設けたからです。

関釜裁判の原告・李順徳(イ スンドク)さんは1998年の一審判決で次のように事実認定されています。
 「満17,8歳のころ、畦道で朝鮮人の男から、「履物もやるし、着物もやる。腹一杯食べられる所に連れて行ってやる」と声をかけられた。家が貧しくついて行くことに決めた。同女が「父母に挨拶してから行きたい」と懇請したにもかかわらず、その男は「時間がない。急ごう」と言って、同女の手を引っ張って行った。…恐ろしく恥ずかしくて…泣きながら連れて行かれた。その途中、男の前を歩かされ…旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、…同じような年齢の娘たちが14・5人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。…日本軍の軍人3人が同女らを…列車に乗せて…上海駅まで連れて行った。…解放の時まで約8年間、毎日朝9時から、平日は8,9人、日曜日は17,8人の軍人が同女を強かんし続けた。…(以下略)


  これは甘言でだます就業詐欺と、旅館に着いてからはカギがかけられた部屋に入れられ国外に連行する=強制が合わさっています。河野官房長官談話の「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」にあたります。


 原告の朴頭理(パク・トゥリ)さんは16歳の頃、日本語と朝鮮語を話す50歳ぐらいの男性から「日本の工場で金になる仕事がある」と騙され日本経由で台湾の慰安所に連れていかれました。
 原告の河順女(ハ スンニョ)さんも19才の頃洋服を着た日本人と韓国式の服をきた朝鮮人から「金もうけができる仕事があるからついてこないか」と騙されて上海の慰安所に連れていかれました。




 こうした連行は、植民地にも実施されていた刑法226条に違反する国外移送目的誘拐罪にあたる犯罪でした。



 次に米軍がビルマのミッチナで捕虜にした20名の朝鮮人「慰安婦」と2人の日本人経営者への尋問に基づく「日本人捕虜尋問報告第49号」を見ていきましょう。
 「1942年5月初旬、日本の周旋業者たちが…朝鮮に到着した。…

病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と家族の負債を軽減する好機、それに楽な仕事と新天地―シンガポールーにおける新生活と将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2、3百円の前渡し金を受け取った。これらの女性のうちには、「地上でもっとも古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。……これらの女性800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろラングーンに上陸した」と書かれています。20名の中12人以上は17歳から20歳までの未成年でした。
 数人はもともと売春に携わっていましたが、多くは誘拐・人身売買による海外移送罪(刑法226条)にあたるケースです。

 次に『漢口慰安所』(221p)に書かれている例を見てみましょう。「朝鮮から二人の朝鮮人に引率された30人余りの女が到着した。……そのうちの1人が、陸軍将校の集会所である偕行社に勤める約束で来たので、慰安婦とは知らなかったと泣き出し修業を拒否した。支部長は業者に対してその女の就業を禁じ、適当な職の斡旋を命じた。おそらく女衒に類する人間が、甘言をもって募集したものであったのだろう」という例があります。これは漫画家の小林よしのり氏など、「軍や国は業者の不法な行為を取締る良い関与をした」と否定派が良く取り上げる例です。しかしながら違法に国外に連れ出した業者を罰したとは書かれていません。

また、送り出す側の植民地朝鮮の警察が刑法226条の誘拐罪と国外移送罪を見逃したか、または黙認したずさんな実態にも言及していません。

 同じような例で、『漢口慰安所』(147p)に、日本内地からだまされて連れてこられ女性のことが書かれています。著者の長沢軍医が検査を拒否する女性に聞くと、「私は慰安所というところで兵隊さんを慰めてあげるのだと聞いて来ました。こんなところでこんなことをされるとは知らなかった。…帰らせてくれ」とせき上げて泣く…困窮した親に売れたのであろう。翌日業者に説得されて検診に来た女性は…一つや二つほっぺたを張り飛ばされでもしたのであろう一晩中泣いていたのか、目はふさがりそうに腫れ上がっていた」と書かれています。「畑からそのまま連れてこられたような女」は「慰安所で兵隊を慰めること」が売春をすることだという認識を持たないで、出国したのでしょう。    

 これは誘拐と人身売買による国外移送罪(刑法226条)にあたり、警保局長通牒に反する例で、長沢軍医は本来ならば業者に法令違反の責任を問い、送り返さねばならなかったはずです。しかし、親に売られた場合は、本人の承諾がなくてもやむを得ないというのが当時の社会の常識で、長沢軍医もこうした常識から自由ではなかったようです。警保局長通牒の「本人の自由意思確認」がいかに軍で徹底されていなかったかがよくわかる例です。

 『漢口慰安所』の舞台になる武漢の攻略は、南京大虐殺とレイプが世界に報道され、厳しい非難をあびている1938年秋に敢行され、南京事件の再現をしないように用意周到に準備されました。漢口を陥落させると、軍を郊外に待機させ、慰安所設営隊が直行し大急ぎで慰安所の設営にかかり、レイプが起こらないように配慮します。欧米各国の駐在員の眼が光る国際都市・漢口で慰安所設置にあたった兵站指導部は、軍の中ではリベラルな軍人や軍医を配置し、管理・監督にあたっています。軍慰安所の中では、おそらく最もましな経営がなされたところでしょう。その慰安所に於いてすら警保局長通牒は徹底されてなく法令違反がなされていたことがわかります。




戦争が長引き、戦局が厳しくなっていくと慰安所の管理実態はまさに無法状態になっていくのを後ほど見ていきましょう。



次に地元福岡で起きた内務省警保局長通達に違反する例を見ていきましょう。
福岡市の被差別部落出身の元軍人は、部落の未成年女性3人が騙されて南方の軍慰安所に連行されたこと、そのうちの一人は妹で看護婦の仕事と騙されて「慰安婦」にされ、猫いらずを飲んで自殺したと証言しています(註9)
 先述した『漢口慰安所』に書かれている、騙されて連れてこられた日本人女性と同様に国外誘拐・移送罪の被害者です。
 内務省警保局長通牒が出された「内地」の日本人女性でさえもここうした事例が散見されます。ましてや同通牒が出されなかった植民地支配下の朝鮮・台湾では誘拐・国外移送罪が多発し、放置されたことが容易にうかがえます。



② 戦地、占領地での徴集の実態

 戦争の末期になると、占領地での慰安婦徴集の際の強制はひどくなっていきます。インドネシアのアンボン特別警察隊の将校だった禾晴道(のぎ はるみち)氏が書いた『海軍特別警察隊』(1975年、太平出版社 p109~116)の慰安婦徴集のすさまじさを見てみましょう。

 戦争末期の1945年、米軍の空襲などで危険な地域となったアンボンにある慰安所から日本人慰安婦を帰国させた後、再び現地の女性を集めて、慰安所をつくろうという動きが海軍司令部からでてきます。警保局長通牒を守らねばならない立場の大島主計大尉が大変積極的で「司令部の方針としては多少の強制があっても、できるだけ多く集めること」として、日本人と個人的な付き合いがある女性は強制的に「慰安婦」にさせられます。

「民政警察の指導にあたっていた木村司政官が敗戦後、戦犯容疑者として収容されたとき話してくれたが、その時の女性集めにはそうとう苦しいことがあったことを知った。『あの慰安婦集めでは、まったくひどいめに会いましたよ。サパロワ島で、リストに報告されていた娘を集めて強引に船に乗せようとしたとき、いまでも忘れられないが、娘たちが住んでいた部落の住民が、ぞくぞく港に集まって船に近づいてきて、娘を返せ!娘を返せ!と叫んだ声が今でも耳に残っていますよ。こぶしをふりあげた住民の集団は恐ろしかったですよ。……敗れた日本で、占領軍に日本の娘があんなにされたんでは、だれでも怒るでしょうよ』」という実態が記されています。

 公文書ではインドネシアのスマラン事件関係裁判所資料があり、軍がオランダ人女性を強制的に慰安所に入れたことが確認されています。このオランダ政府の報告書には他に、8件の軍・官憲による暴力的な強制連行が報告されています。

 さらに、正式な軍が作った慰安所ではないのですが、小さな部隊が慰安所に準じた形で現地女性をあつめ、レイプを繰り返す例が多く見られます。フイリッピンや中国で名乗り出た女性たちのほとんどが、軍人による暴力的な連行の被害者です。

 日本の裁判所は、中国の山西省で軍が女性たちを強制連行した事実に関して「日本軍構成員によって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、すなわち慰安婦状態にする事件があつた」と認定しています(中国人第1次裁判東京高裁判決)。


                                                   
③まとめ

 以上、植民地、「内地」、戦地・占領地における「慰安婦」徴集の実態を見てきましたが、内務省警保局長通牒の基準が厳格に守られていたのであれば、こういう犯罪は未然に防止されたはずです。しかしながら、未然に防止されるどころか、事後においても被害者が救済されたり、業者が告発された形跡はありません。女性を送り出す地域の警察も、送られてきた側で軍慰安所を管理していた軍も、いずれもこのような犯罪行為に何ら手を打っていないのです。

 先述の『漢口慰安所』には、慰安所の「管理・監督・運営しなければならない」軍人も「内地の遊郭はどのような法律や規則で規制されているのか誰も知らないし、単なる社会常識や経験で措置できる世界ではない」(p56)。「当時、“軍隊は員数である”とか“服に体を合わせる”などという言葉があった。つまり数さえそろえばよいのである。」(p74)と書かれています。上から「何人の慰安婦を集めろ」と命令されると、員数を集めるのが優先されて、本人の意思を聞くなどは省かれるか、そもそも「自由意思」を確認しなければならない規則など知らないのが現場の実態であったようです。

 比較的ましな管理・運営がなされていた漢口慰安所ですら以上のような実態であり、アンボンの例でみられるように、戦争が長期化し、末期になるに従い、内務省警保局通牒の「本人の自由意思」確認はどんどん空文化していきました。



 軍慰安所の維持のためにはやむをえない必要悪だとして、軍上層部が組織的に見て見ぬふりをしなければ、とうていこのようことはおこりえなかったでしょう。事実上刑法226条はザル法と化し、警保局長通牒が空文化して行きました。
 軍が命令を出さなかったとしても、軍と国が組織的に犯罪を見て見ぬふりをしていた場合は日本軍が強制連行を行なったといわれてもしかたがなく、責任は回避できないでしょう。




八 「強制」の本質は慰安所で性奴隷状態に置かれたこと

 「慰安婦」問題における国や軍の責任を否定する人たちが、「慰安婦」徴集の過程における強制連行の有無を取り上げるのに比べ、慰安所での強制に言及が少ないのは奇異なことです。



以下に慰安所での実態を見ていきましょう。


 「いい仕事があるから」と甘言で連れてこられた関釜裁判の「慰安婦」原告たち3人は、軍慰安所に閉じ込められて騙されたことに気づきます。以降5年から7年間余にわたって、小さな部屋に閉じ込められ、軍人や経営者の暴力にさらされながら終戦まで「慰安」を強要されます。あまりにもつらくて途中で逃亡を企てた河順女(ハ・スンニョ)さんは慰安所の主人に見つかり、棍棒で体中を滅多打ちにされ、最後に頭を殴られ大出血をしました。その後遺症で、亡くなるまで頭痛に苦しめられました。

李順徳(イ・スンドク)さんは、戦争も末期の昭和20年に、「約束をしていたのに他の軍人と寝た」と怒った将校から軍靴で腹をけり上げられ、背中を刀で切りつけられました。その無残な傷跡が今なお残っています。1994年9月下関裁判所で本人尋問に立った際、尋問が進み、慰安所だった粗末な小屋の絵(順徳さんの説明をもとに弁護士が書いた絵)を見た途端、大変興奮し、日本刀で切られた背中が痛いと泣き出し、失神状態になりました。傍聴されていた医者の手当てで何とか尋問が再開されますが、再度失神状態になるほどPTSDによるフラッシュバックに苦しめられました。

 慰安所で経営者からよく殴られていた朴頭理(パク トゥリ)さんは、提訴の後で支援者に囲まれて食事をしたとき、「私は日本人をみな鬼だと思っていた。どうしてこのようにやさしい日本人がいるのか、わけが分からなくなった」と言いながら、涙をポロポロと流しました。



 まさに、河野談話が記した「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」のです。




下関裁判所の裁判官たちは原告たちの置かれた境遇を聞き、また軍の作った慰安所規定(「慰安所での酒肴茶菓の饗応を禁ず。」、「特に許したる場所以外の外出を禁ず」等)を検討して、 判決文で「酒肴茶菓の饗応・接待もなく、ただ性交するだけの施設がここにあり、慰安婦とはその施設の必需の備付品のごとく、もはや売買春ともいえない単なる性交、単なる性的欲望の解消のみがここにある。……まさに性奴隷としての慰安婦の姿が如実に窺われる」と述べています。



 一方『漢口慰安所』や、今年の8月7日付の毎日新聞に載ったシンガポールやビルマの慰安所で働いた朝鮮人男性の日記からは、借金を返し終えて、帰国したり、同地で民間料亭の仲居になった元慰安婦に関する記述があります。

 本来業者と慰安婦との間には契約書があり、業者が慰安婦に支払った金が記載されていました。さらに、衣装や化粧代などの雑費を加えた額が借金として記載された借用証書がありました。稼ぎ高の取り分は借金があるうちは業者が6分、4分は「慰安婦」の取り分で、その取り分は全額借金の返済に充てられるので、日常の入用品は業者から借金をすることになっていました。こうした謝金の返済に軍の監督の眼が届かなければ、業者は高利をつけて借金づけにして「慰安婦」を長年にわたって働かすことが起きます。

 さらに、『漢口慰安所』(64p)には「朝鮮人業者の中には、ひどい例もあった。証文も何も、書類らしきものは一切なく、貧農の娘たちを人買い同然に買い集めて働かせ、奴隷同様に使い捨てにする。これでは死ぬまで自由を得る望みはないのだが、女性たち自身も、そうした境涯に対する自覚は持っていないようであった」という悲惨な例が出てきます。

 当時の植民地朝鮮では市民を守る法治は極めてずさんで、上記のような業者が無学な貧しい農村の女性たちを、誘拐や人身売買で国外に連れ出すことが比較的容易であったのでしょう。(註10)上記の業者と女性も漢口慰安所に収容され、軍医の監督の下で借金返済が指導され、慰安所での奴隷状態から解放される可能性がでてきたのは不幸中の「幸い」ともいえるでしょう。

 関釜裁判の原告たちのように、敗戦まで長期にわたり働かされ、敗戦時業者に置き去りにされ、一銭ももらえなかった「慰安婦」がいたのも事実で、植民地の朝鮮や台湾で名乗り出た元「慰安婦」たちの多くに見られます。軍の管理・運営がずさんな慰安所が少なからず存在したことがうかがえます。
 いずれにしても、借金を返し終えるまでは慰安所に閉じ込められる自由を奪われた生活で、しかも戦場生活で心が荒んだ兵士相手だったことは、被害者たちに終生逃れえない心身の傷を残しました。

 軍が政策として作り出し、設置、監督・運営にあたった慰安所での、裁判所も認めた性奴隷としての生活を強制された被害にこそ、軍の加害責任を痛感してほしいものです。



九 国は責任の主体を明確に

 橋下大阪市長は「日本は国をあげて強制的に「慰安婦」を拉致し、職業に就かせたと世界は非難している。」と述べていますが、これはまちがいです。「強制」を連行の過程だけに絞り、しかも直接軍人や警官が当たった時にのみに矮小化しています。

 世界が批判しているのは軍が作った慰安所で女性を軍人相手の性奴隷にしたことです。元外交官の東郷和彦氏が2007年にアメリカで開催された歴史問題シンポジュウムで聞いたアメリカ人の意見を紹介しています。
 「日本人の中で強制連行があったか、なかったかについて繰り広げられている議論はこの問題の本質について無意味である。…慰安婦の話を聞いたとき彼らが考えるのは『自分の娘が慰安婦にされていたら』と考えゾッとする。これがこの問題の本質である。ましてや、慰安婦が、「甘言をもって」つまり騙されたという事例があつただけで、完全にアウトである。」
2007年7月にアメリカ議会下院で決議された内容は「若い女性たちに対し、日本軍が性奴隷制を強制したことについて、明確かつ曖昧のない形で歴史的責任を認め、謝罪し、受け入れるべきである」と日本政府に勧告しています。



 以上みてきたように、安倍首相や橋下市長の「強制連行を裏付ける資料がない」との発言は、勉強不足か、自分の主張にあわない事実は無視する厚顔無恥なものです。橋下発言は世界から厳しく批判されています。



 今必要なことは日本政府が、河野談話以降の資料を収集し、アジア各地の被害者の話に耳を傾け、慰安婦問題の歴史認識をさらに正確にして日本と韓国の国民にかたりかけることです。そして「「慰安婦」制度は軍が作った性奴隷制である」と責任主体を明確に認めて解決に向けて動くことです。




 戦後補償の裁判に来日した被害者たちは、私たち日本人に和解の手を差し伸べていたのです。恨を解いて余生を少しでも心安らかに過ごしたかったのです。そのような願いがかなわぬまま多くの被害者が世を去りました。
 今でも、日本と韓国の間には多くの市民が行き来し、交流しています。「慰安婦」問題が日韓の市民の交流を妨げるようなことは、被害者たちも望まなかったことです。少しでも多くの市民が「慰安婦」問題に真摯に向き合うきっかけにこの文章がなれば幸いです。




                「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(俊) 







(註1)
このブログ内の 「何故、韓国では挺身隊と軍「慰安婦」が混同されたのか?」を参照してください。

(註2)
陸軍省副官発北支那方面軍及び中支派遣軍参謀長あて通牒、陸支密第745号「軍慰安所従業婦募集に関する件」1938年3月4日
支那事変地における慰安所設置のため、内地においてこれの従業婦等を募集するに当り、ことさらに軍部諒解などの名儀を利用しために軍の威信を傷つけかつ一般民の誤解を招くおそれあるもの、あるいは従軍記者、慰問者などを介して不統制に募集し社会問題を惹起するおそれあるもの、あるいは募集に任ずる者の人選適切を欠くために募集の方法が誘拐に類し警察当局に検挙取調を受けるものあるなど 注意を要するものが少なからざるについては、将来これらの募集などに当っては派遣軍において統制し募集に任ずる人物の選定を周到適切にしてその実施に当たっては関係地方の憲兵および警察当局との連繋を密にし軍の威信保持上ならびに社会問題上遺漏なきよう配慮相成たく依命通牒す。
~以後「副官通牒」と略します。なお軍や政府資料はカタカナで書かれていて読みづらいので筆者がひらがなにしています。支那は中国のことです。)

(註3)
ビルマで捕虜になった日本人の慰安所経営者と20名の朝鮮人慰安婦への米軍による捕虜尋問調査を根拠に~この件に関しては当ブログの「軍『慰安婦』の報酬はどうであったか」ですでに検証済みです。

(註4)
明治5年荒天で破損した船体修理に横浜入港のペルー船籍「マリアルス号」が上海から清国人苦力(クーリー)231名を運ぶ奴隷船である事が発覚しイギリス公使の要請を受けて日本政府が救出しますが、後の裁判過程でペルー側から日本国内で公然と行われる娼妓の人身売買を証拠物件と共に指摘され、日本政府には奴隷解放を説く資格全くなしと非難され国家の面目を大いに損なう一件がありました。慌てた明治新政府は同年人身売買禁止令を布告し更に娼妓の自由廃業を認める法令が成立します。

(註5) 
第六条 娼妓名簿削除申請に関しては何人と雖妨害を為すことを得ず

(註6)
1990年2月大審院は、函館の娼妓坂井フタが貸座敷主山田精一に対し起こしていた娼妓廃業届書への捺印請求事件について「貸座敷営業者ト娼妓トノ間ニ於ケル金銭貸借上ノ契約ト、身体ヲ拘束スルヲ目的トスル契約トハ各自独立ニシテ、身体ノ拘束ヲ目的トスル契約ハ無効ナリ」として、函館での原判決を破棄し、函館控訴院へ差 し戻すという判決を下した。
しかし「別」の金銭貸借を解決する金を持たない娼妓は廃業が難しかった。

(註7)
 山崎正男第10軍参謀の日記より

(註8) 
外務省外交史料館蔵「支那事変二際邦人ノ渡支制限並取締関係雑件1」。
  
(註9)
関釜裁判ニュース45号「封印された過去~日本人慰安婦」後編より

(註10)
1939年8月31日東亜日報によると朝鮮半島の悪徳業者が100名を超える婦女子を誘拐し売り飛ばして警察に逮捕されたニュースが載っています。100名を超える女子誘拐国外移送犯罪です。ここまでの規模でなくても女性を誘拐して国外に移送する犯罪は多発していて、警察による摘発は氷山の一角であったようです。一方で軍の許可を持った業者による人身売買、誘拐に類した国外移送は
 これまで見てきた例でみると警察は黙認していたと思われます。








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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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