インドネシア ヌラ(Nurah 南スラウェシ州・ブギス出身)の場合
★インドネシアの証言者たち - 2013年10月16日 (水)

母親はヌラを国民学校に通わせました。この学校教育を受けることのできた幸いが、ヌラの不運を引き寄せることになるとは本人をはじめ誰も予想していませんでした。
その日、ヌラはいつものように四人の友だちとお喋りしながら学校へ向かっていると、その途中、道の傍らに停車していた日本軍のトラックからいきなり三人の兵隊が飛び降りてきて、少女たちの胸に銃剣を突き付けたのでした。
兵隊たちは ”mati kamu, mati kamu!”(「おまえは死んでいる、お前は死んでいる」)と変なインドネシア語を叫びながら少女たちの行く手を阻んだのでした。少女たちは恐怖のために身体が棒のように膠着してしまいました。ところがその言葉は、日本人の発音に成れていなかった少女たちの聞き間違えで、”mati”(「死んでいる」)ではなく、”mate”(「待て!」)であったことを知ったのは、それからずーっと後のことでした。
少女たちは日本兵に抱えられ、米袋のように無理やりトラックに載せられました。言うまでもなく、少女たちの両親たちは自分たちの子どもが日本兵に無理やり連れて行かれたことを知るすべもありません。少女たちはそのことに気づくと、恐怖のあまりただ泣くのが精一杯でした。少女たちを載せたトラックはさらに走り続けました。
その途中で通学中の少女たちを見つけた日本兵たちはその子どもたちも拉致してトラックの荷台に載せました。トラックはさらに走りつづけて人里離れた場所までくると停車しました。
そこには竹の壁でできている家が6軒ありました。そこが「慰安所」であったとは後で知りました。「わたしその日そこではじめての凌辱を受けました」。竹の門の所には二人の日本兵がつねに監視の目を光らせており、私たちは12ヵ月間そこで監禁されつづけました。
竹の家には10人の少女たちが同じように監禁されていました。部屋はカーテンのような布切れで仕切られているだけでした。そのためにひとりの日本兵がカーテンを越えてふたりの少女を同時に凌辱することもありました。そんなわけで、日本兵の性欲に「仕える」必要のない時間帯に、隣の間仕切りに兵隊がくると、その少女の泣き声が聞こえることがよくありました。
連合軍に日本が敗北することによって、ヌラは「慰安所」から解放されました。ヌラは長い道のりを何日も歩いてやっと自分の村に帰りつきました。けれども母親はヌラが日本兵の「慰安婦」にされたことは「家の恥」だとして追放したのでした。けれども母親は自分の判断が大きな間違えであることに気づきました。それはヌラの苦境は自分で引き寄せたものではないからです。ヌラは再び家族の一員として迎え入れられました。
ヌラはいま、ひとりの子どもと共に村で暮らしている。その子は、ヌラが「慰安所」から村に帰ってから数年後に結婚した夫との間にさずかった独り子です。けれども、ヌラの子は日本軍がインドネシアを占領した時代に、母親の上にいったい何が起こったのか、実のところ良く理解していないようです。
それはヌラが明確に語ることをためらっていることが唯一の理由ではなく、真相を知ることの怖さに囚われている子どもの側にも、その理由の一旦があるように思えます。そして、両者をこのような意識へと仕向ける社会の在り方、および、戦時性暴力の被害者たちに未だに謝罪しない日本政府の政策にもっとも大きな原因があると筆者は考えます。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク 木村 公一
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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