インドネシア  ヌラ(Nurah 南スラウェシ州・ブギス出身)の場合




ヌラは6人兄弟の第三子である。彼らはみな共に母親と暮らしていた。ヌラがまだ母親の胎内にいたとき、父は病気で他界したので、彼らはみな母親に育てられた。ヌラと年上の兄弟たちと共に、小さい時から畑で一所懸命はたらく母親を助けことの好きな少女でした。子どもたちは町の人々の好きな「豆ご飯」を市場で売っては生活の糧にしていました。家の家計に少し余裕がでてきたのはヌラが12歳の時でした。

母親はヌラを国民学校に通わせました。この学校教育を受けることのできた幸いが、ヌラの不運を引き寄せることになるとは本人をはじめ誰も予想していませんでした。
その日、ヌラはいつものように四人の友だちとお喋りしながら学校へ向かっていると、その途中、道の傍らに停車していた日本軍のトラックからいきなり三人の兵隊が飛び降りてきて、少女たちの胸に銃剣を突き付けたのでした。

兵隊たちは ”mati kamu, mati kamu!”(「おまえは死んでいる、お前は死んでいる」)と変なインドネシア語を叫びながら少女たちの行く手を阻んだのでした。少女たちは恐怖のために身体が棒のように膠着してしまいました。ところがその言葉は、日本人の発音に成れていなかった少女たちの聞き間違えで、”mati”(「死んでいる」)ではなく、”mate”(「待て!」)であったことを知ったのは、それからずーっと後のことでした。

少女たちは日本兵に抱えられ、米袋のように無理やりトラックに載せられました。言うまでもなく、少女たちの両親たちは自分たちの子どもが日本兵に無理やり連れて行かれたことを知るすべもありません。少女たちはそのことに気づくと、恐怖のあまりただ泣くのが精一杯でした。少女たちを載せたトラックはさらに走り続けました。
その途中で通学中の少女たちを見つけた日本兵たちはその子どもたちも拉致してトラックの荷台に載せました。トラックはさらに走りつづけて人里離れた場所までくると停車しました。

そこには竹の壁でできている家が6軒ありました。そこが「慰安所」であったとは後で知りました。「わたしその日そこではじめての凌辱を受けました」。竹の門の所には二人の日本兵がつねに監視の目を光らせており、私たちは12ヵ月間そこで監禁されつづけました。

 竹の家には10人の少女たちが同じように監禁されていました。部屋はカーテンのような布切れで仕切られているだけでした。そのためにひとりの日本兵がカーテンを越えてふたりの少女を同時に凌辱することもありました。そんなわけで、日本兵の性欲に「仕える」必要のない時間帯に、隣の間仕切りに兵隊がくると、その少女の泣き声が聞こえることがよくありました。


連合軍に日本が敗北することによって、ヌラは「慰安所」から解放されました。ヌラは長い道のりを何日も歩いてやっと自分の村に帰りつきました。けれども母親はヌラが日本兵の「慰安婦」にされたことは「家の恥」だとして追放したのでした。けれども母親は自分の判断が大きな間違えであることに気づきました。それはヌラの苦境は自分で引き寄せたものではないからです。ヌラは再び家族の一員として迎え入れられました。


 ヌラはいま、ひとりの子どもと共に村で暮らしている。その子は、ヌラが「慰安所」から村に帰ってから数年後に結婚した夫との間にさずかった独り子です。けれども、ヌラの子は日本軍がインドネシアを占領した時代に、母親の上にいったい何が起こったのか、実のところ良く理解していないようです。

それはヌラが明確に語ることをためらっていることが唯一の理由ではなく、真相を知ることの怖さに囚われている子どもの側にも、その理由の一旦があるように思えます。そして、両者をこのような意識へと仕向ける社会の在り方、および、戦時性暴力の被害者たちに未だに謝罪しない日本政府の政策にもっとも大きな原因があると筆者は考えます。

「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク 木村 公一





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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