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インドネシア   スリ・スカンティさん の場合



中央ジャワ、プルウォダディ郡に生まれたスリ・スカンティ
(1934生まれ)は郡長の12人兄弟の末っ子で、姉妹たちの中で最も美しい少女でした。周辺の村々の若者たちに間でこの美少女を知らない者はいなかった。

1943年、インドネシア民衆は日本軍政下で、経済的にも社会的にも苦難の日々をおくっていた。ある日、日本軍の将校が2名の副官と村長を連れて、グンディ村の国民学校(SR)で学ぶ9歳になったスカンティのもとにやって来た。その将校の名はOgawaといった。

ふたりの副官はいきなり威圧的な言葉と態度で両親にスカンティを差し出すようにと命令した。拒否し反問する父親の胸には銃剣が突きつけられ、母親はただ泣くことしかできなかった。兵隊たちは力ずくでスカンティを両親の腕からもぎ取るようにして連れ去っていった。

こうして、将校たちはスリ・スカンティを自宅からそれほど離れていない同じプルヲダディ郡に位置する日本軍兵舎へと連れて行った。スカンティが監禁された場所は日本軍駐屯施設のただ中にある「パパック館」と地元の人たちが呼ぶ知られた建物であった。スカンティによれば、この建物の二階がオガワの「将校住宅」であり、一階は部隊の事務室として使われ、オガワに命令する上官はひとりもいなかったというから、彼はこの部隊の最高指揮官であったと推測できる。この建物の二階の「将校マンション」で9歳の少女はオガワノ「所有物」とされ、この男の性欲を満たす道具とされたのである。


スカンティは証言する。「他の兵舎には下士官たちのために、数名の若いジャワ人女性が自分と同じような性奴隷として監禁されていました」と。つまり、軍施設がレイプセンターとして使用されていたわけである。
オガワはスカンティを二階に閉じ込め、階下に降りてくることを許さなかった。一日に数分間バルコニーに出ることだけが許された。
スカンティの証言によれば、オガワが行ったことは性行為ではなく、性暴力であり、「虐待的幼児性愛者 (predatory pedophile)」であった。子宮に深い損傷を被り出血が止まらずにいた1945年のはじめ、少女ははじめてオガワの性暴力から「解放」されてグンディ村の自宅に帰された。変わり果てたスカンティに両親は大きな衝撃を受け、直ちに入院治療をうけさせた。一か月の入院で傷ついた身体はある程度の回復をみたが、心に深みにまで被った損傷はその後のスカンティを苦しめることになった。

                     
日本の敗戦によって日本兵はいなくなったが、外出すると必ず村の若者たちから「日本兵に遊ばれた女」という誹謗を受けることになった。


スカンティは今まで二度結婚しているが子宮の損傷のゆえに子どもには恵まれなかった。いまの彼女の生活はお世辞にも恵まれているとは言えない。彼女の夫は以前、建築現場で作業中に事故にあい障害者になった。だから彼女は夫の分まで働かなくてはならず、マッサージと死体を洗浄する仕事で日々の生計を立てている。オガワは帰国し、おそらく、旧軍人の特権によって「恵まれた」出世街道を上り詰め人生を終えたのか。それとも、日本においても、「虐待的小児性愛者」としての犯罪的な人生を貫いたのか、筆者のわたしには分からない。けれども、わたしはひとりのあどけない9歳の少女の人生をその子宮と共に破壊させたこの将校オガワに責任をとらせたかった。


3無題

  
2013年9月12日から19日 筆者はインドネシアを訪問。
現在 被害者の方々の調査をしているエカさんとスカンティさん 筆者
 2013年9月15日撮影          木村 公一


「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク 木村 公一





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

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