何故、韓国では挺身隊と軍「慰安婦」が混同されたのか? 


はじめに

戦後ずっと韓国社会では、「慰安婦」と「挺身隊」は同じ意味で使われてきました。挺身隊として動員され「慰安婦」にされたと思われてきました。何故このような「誤解」が生まれたのかここで考えていきたいと思います。


1、朝鮮女性の戦時労働動員

日本での労働力の戦時動員は1938年の国家総動員法が公布されてから本格的に始まりますが、太平洋戦争が始まり戦局が悪化する中で、ますます労働力が不足し、43年1月より「女子も徴用すべし」との意見がおこっています。1943年9月13日「女子勤労動員の促進に関する件」が次官会議で決定され、14歳以上の未婚女性を動員の対象としました。

植民地・朝鮮では43年10月より「女子労力も積極活用」とするキャンペーンが張られていきます。そして1944年3月朝鮮ではじめて「女子勤労挺身隊」が結成されます。



2、「混同」はいつから始まったのか? 

1944年4月23日「京城日報」で、「街は早婚組の氾濫」との見出しで、挺身隊に行くことを逃れるために、結婚を早める女性が多くなったと書かれ、「挺身隊逃れ」が頻発していたことがうかがえます。

一方、44年6月に朝鮮総督府が作成した「官制改正説明資料」には、「未婚女子の徴用は必至にして中には此等を慰安婦となすが如き荒唐無稽なる流言巷間に伝わり此等悪質なる流言と相まって労務事情は今後ますます困難に赴くものと予想せらる」とあります。(「『慰安婦』問題調査報告・1999」女性のためのアジア平和国民基金発行 高崎宗司論文より)

勤労挺身隊動員が始まる頃から挺身隊の名の下に「慰安婦」にされるのではないかという恐怖が一部に生まれていたことが推察されます。



3、関釜裁判の原告たちは?当時の女性たちは?

関釜裁判の勤労挺身隊の原告たち(動員先:富山・不二越、名古屋・三菱、静岡・東京麻糸)の証言を聞くと、皆さんが挺身隊に志願して親から反対されています、それは娘が幼くして親元から離れ、戦争中である日本に行くことへの不安からの反対でした。

また、挺身隊問題対策釜山協議会の金文淑(キム・ムンスク)会長(27年生まれ)によると「女子挺身隊の噂を聞くようになったのは女学校4年生の頃だったと思います。慰安婦にさせられるとかそんなことはうわさにも聞いたことがありませんでした。ただ、『軍需工場に行かされたら、いつ爆撃されて死ぬかも分からない』という考えで、みんな一所懸命に挺身隊へ行かなくてすむことを考えました。当時、挺身隊から逃れる道は2つしかありませんでした。結婚するか教員になるかです。」(「朝鮮人軍隊慰安婦」 金文淑著 明石書店)

挺身隊問題対策協議会の元共同代表の尹貞玉(ユン・ジュンオク)さんも挺身隊に取られるのを避けるために両親の勧めにより退学したとのことです。(「平和を希求して」尹貞玉著 白澤社)



4、挺身隊=慰安婦の言説のはじまり

尹貞玉さんの上記著作の記述に続いて、「45年8月15日の解放以降、連行されていった学徒兵や軍属らが、どっと洪水のように帰ってくるようになりました。しかし、連れ去られていった女性たちが帰ってきたということを聞きませんでした。それはあまりにもおかしいことではないかと私は思ったので帰ってきた男性たちから証言を聞くことにしたのです。そのときに日本の軍需工場で働くといって連れ去られた女性は、実は工場ではなくて戦場で『慰安婦』にさせられていたことを聞き、」驚愕したとあります。

彼女は1980年から「慰安婦」被害女性たちの足跡調査を始め、その調査結果を90年1月にハンギョレ新聞に発表し、日本軍「慰安婦」の存在を世に知らしめました。

金文淑さんも、1989年の東亜日報の記事で、日本人の城田さんが朝鮮人女性を初めとする従軍慰安婦の鎮魂碑を建てたということを知り、驚きました。彼女は挺身隊に行くまいとして逃げることができたけれど、挺身隊から逃げるすべを持たなかった田舎の若い娘たちは『慰安婦』にさせられていたのかと胸を衝かれ、「慰安婦」被害者を探す旅を始めます。

「軍需工場で働く」イコール「挺身隊」イコール「慰安婦」の言説が戦後このように決定的になったと考えられます。そして、「挺身隊」という言葉自体が「身を持って挺する」という風に読み替えられていったのではないかと思います。それゆえ、日本によって故郷を離れた女性たちを日本兵士に身を捧げた「汚れた女」と蔑視するようになったのではないかと考えます。



5、忘れられていた勤労挺身隊のこと

では、「慰安婦」と同一視された勤労挺身隊は、韓国ではどのように扱われていたのでしょうか。韓国での「慰安婦」問題解決運動の創成期から関わった山下英愛さんによると、「(92年、「慰安婦」の方の名乗り出を促すための「挺身隊申告電話」に、勤労挺身隊出身であるとの電話が多数かかってきた。)元勤労挺身隊の当事者からの電話は意外だった。全く予想していなかったのである。約3分の1がそうした電話だった。」(「ナショナリズムの狭間から」山下英愛著 明石書店)とあります。(他に設けられた申告電話をあわせると半数以上が勤労挺身隊被害者だったそうです。)


戦後45年を経て、その間、韓国マスコミや日本のジャーナリストや作家たちの影響もあり、韓国社会では「挺身隊」は「軍慰安婦」と同一視されてしまい、しかも勤労挺身隊の被害は全く知られていなかったのです。



6、明らかにされる挺身隊被害の実態

日本に動員された「朝鮮人女子勤労挺身隊」の方々は、44年に国民学校の6年生だったか卒業したばかりの人がほとんどでした。(当時の朝鮮において小学校は義務教育でなかったので、入学時の年齢は様々でした。)

彼女らは皇民化教育により日本語で日本人としての教育をうけていました。
当時教師の権威は絶対で、働きながら女学校にも行けるとだまされ、親の反対を押し切り、印鑑を盗んで書類に押印し「志願」させられました。


同世代の日本人の子どもたちは空襲を避けるために疎開していたのに、空襲の標的である軍需工場と、隣接する寮に一日中囚われていたのです。自由のない軍隊的規律に縛られた日常生活、空腹(栄養失調、免疫力の低下、感染症の発症)、重労働(日本人成人男子の労働の引継ぎ)で健康を損ない、頻発する空襲警報で精神の安定を崩す方も多かったのです。
さらに戦後はアイデンティティの分裂(宗主国・日本の戦争に動員されたのに、自国の歴史・被害と一体化できず、8・15「解放」の意味がわからなかったなど)と、朝鮮における反日感情との板ばさみで苦しみました。


そして、挺身隊=「慰安婦」の風潮のなかで自身の過酷な被害を語ることが出来ず、夫に「挺身隊」だったことが知れると夫婦関係が壊れ、離婚に至ったケースもあります。


今も続くあまりにもつらく根強い「誤解」ですが、2000年代半ばから韓国内で挺身隊被害者を支援する市民の動きが出てき、徐々に徐々に「慰安婦」と挺身隊は違うという認識が広がってきています。光州などの地方自治体で生活支援が取り組まれるようになりました。


1990年代勤労挺身隊の方々は日本で日本国と企業を相手に裁判を起こし、日本の裁判所で自らの被害を訴えることで尊厳を回復して行きました。日本では敗訴しましたが、韓国でも企業相手に訴訟を提起し(2012年)、挺身隊被害の実態が認識され、彼女たちの名誉も回復されつつあります。


「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(恵)



参考文献
「『慰安婦』問題調査報告・1999」女性のためのアジア平和国民基金発行 高崎宗司論文
「朝鮮人軍隊慰安婦」 金文淑著 明石書店
「平和を希求して」尹貞玉著 白澤社
「ナショナリズムの狭間から」山下英愛著 明石書店





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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