マリア・ロサ・L・ヘンソンさんの証言
★フィリピンの証言者たち - 2013年05月16日 (木)
私は1927年12月5日に貧農の母フリアと、フリアがメイドとして働いていた大地主のヘンソン氏との間に、マニラ首都圏パサイで生まれました。7歳のとき、父の援助でパサイのカトリック系の聖マリア・アカデミー(女子修道会が経営する私立学校)に7年生まで通いました。そのころの夢は医者になることでした。
母は私が7歳のころから、自分の娘時代の話しをしてくれるようになりました。母は地主や親に従う他になかったこと、私はレイプされて産まれたといういきさつについてでした。母と私は仲の良い親子でした。1963年に亡くなるまで何度も話してくれました。
1941年12月5日、私は14歳になりました。14歳になった私は人生に朗かな希望を抱いていました。けれども3日後の12月8日に大日本帝国の軍隊による真珠湾の奇襲がおこなわれたのです。1941年12月8日の月曜日に学校へ行くと校門のところにたくさん生徒があつまっていました。
戦争が勃発したので、学校が閉鎖されるというニュースが伝えられました。次の日、私の家族も親戚や近所の人たちも一緒にマニラ北方のブラカン州ノルサガライのイポダムに疎開しました。
1942年1月2日、大日本帝国の軍隊が上陸しました。やがて、ウエインライト将軍がマニラの無防備地帯宣言(無防備を公式宣言して国際法により敵の攻撃から守られる都市)をだします。それでわたしたちはパサイの家に戻ることにしました。
2月のある日、家で使う薪をとりにいきました。突然2人の日本兵が私の両腕をつかみました。その時、日本軍将校が「バカ」と叫んで近寄ってきて、私を捉まえていた2人の兵隊を殴りました。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎ取ってレイプしました。その後、彼は2人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプして立ち去りました。
家に帰ると、この事件に対して誰にも言わないように母は忠告しました。地主にレイプされた母の運命を連想しました。私はまだ生理もない少女だったのです。
それから2週間後、薪採りに出かけました。そこでまたあの日本軍将校にでくわしたのです。その将校は叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。レイプの後、その将校は立ち去りました。
1942年3月29日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(抗日人民軍)が誕生しました。
パムパカンガ州アンヘルスに逃れた私はフクバラハップ第49中隊の議長である母の従兄弟から、私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問ました。私は応諾しました。母もフクバラハップに協力していました。村の人々はみんな日本軍と戦うフクバラハップに好意的だったのです。
フクバラハップに参加して、私が一番に学んだことは人権尊重ということです。何人も人権を侵害されてはならないという信念は、今も私の心に生きています。「バタアン死の行進」と呼ばれるマリベスから行進してきた捕虜たちを私もこの目でみました。兵隊たちはやせこけ、顔色も蒼白で行進するにはあまりにも弱っていたのです。パルパカンに帰る途中、大勢の日本兵が突然村を襲ってきて、鶏や牛やパパイヤなど奪ったりという村への襲撃と略奪という日本軍の習性を私たちが体験したのはこのような早い時期からでした。
1943年4月のある日、組織の示唆があり、近くの町マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。検問所で、警備兵に連行され、次の日から(6人の女性がいた)、昼の2時から夜10時まで、トラックできた兵隊たちが行列を作って私をレイプする日々が始まりました。毎日12人から20人の兵隊からレイプされました。
水曜ごとに、私たち7人とも日本人医師の検診を受けました。週2~3回は、別の建物で日本軍将校からレイプされました。マラリアに罹った私をレイプした何千人もの日本人、レイプしても満足しない人は私をいつも殴る残酷な彼らの顔が離れません。何千人もの日本兵に虐待されたためにぼろぼろになり、青ざめていく自分を感じました。
1944年1月、ゲリラたちに救出されました。私は9ケ月も日本軍の性奴隷として囚われていたのです。1945年1月、連合軍はリンガエンに上陸し、アンヘルスを開放した後、2月5日にマニラに到着しました。そのころの私は、後遺症として会話が不自由で話しをするとよだれが垂れて、頭がおかしく見えるような娘だったのです。
兵士であったドミンゴから求婚されました。「イエス」という前に私は自分が日本兵にレイプされたことを告白しました。ドミンゴはレイプされたのは過去のことだと言いました。処女でないことを受け入れてくれたのです。
1945年9月頃、ドミンゴと私は同居することになりました。でも結婚の申し込みを正式に受けいれませんでした。
ドミンゴは私に無理にセックスの相手をさせようとはしませんでした。それでもセックスをするたびに、いつも私は自分をレイプする日本兵のイメージに囚われました。それが嫌で嫌でたまりませんでした。
1947年8月13日に長女が生まれました。とてもしあわせでした。その2年後1949年9月2日に次女が誕生しました。しかし、夜中に悪夢でうなされる私は夫に心を閉ざしていたことから、夫の心が冷えてゆくのがわかりました。
夫は米国に支援されるフィリピン国軍に殺されました。1951年12月24日に長男を出産しました。
3人の子どもに恵まれ、母との生活はマールボロ・フィリtプモリスのたばこ工場の工員なったことから安定してきました。1991年に退職してからも、SSS(社会保険制度)の年金があるので何とか暮らしています。子ども3人は結婚して12人の孫と13人の曾孫にめぐまれました。
1992年9月18日、私はカム・アウトをしました。何も知らなかった子どもたち3人も「母さんを愛している。もし母さんが殺されていたら、私たちは今ここにいない」と言っ
てくれました。
「ある日本軍『慰安婦』の回想~フィリピンの現代史を生きて~」(1995年岩波書店)より抜粋
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母は私が7歳のころから、自分の娘時代の話しをしてくれるようになりました。母は地主や親に従う他になかったこと、私はレイプされて産まれたといういきさつについてでした。母と私は仲の良い親子でした。1963年に亡くなるまで何度も話してくれました。
1941年12月5日、私は14歳になりました。14歳になった私は人生に朗かな希望を抱いていました。けれども3日後の12月8日に大日本帝国の軍隊による真珠湾の奇襲がおこなわれたのです。1941年12月8日の月曜日に学校へ行くと校門のところにたくさん生徒があつまっていました。
戦争が勃発したので、学校が閉鎖されるというニュースが伝えられました。次の日、私の家族も親戚や近所の人たちも一緒にマニラ北方のブラカン州ノルサガライのイポダムに疎開しました。
1942年1月2日、大日本帝国の軍隊が上陸しました。やがて、ウエインライト将軍がマニラの無防備地帯宣言(無防備を公式宣言して国際法により敵の攻撃から守られる都市)をだします。それでわたしたちはパサイの家に戻ることにしました。
2月のある日、家で使う薪をとりにいきました。突然2人の日本兵が私の両腕をつかみました。その時、日本軍将校が「バカ」と叫んで近寄ってきて、私を捉まえていた2人の兵隊を殴りました。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎ取ってレイプしました。その後、彼は2人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプして立ち去りました。
家に帰ると、この事件に対して誰にも言わないように母は忠告しました。地主にレイプされた母の運命を連想しました。私はまだ生理もない少女だったのです。
それから2週間後、薪採りに出かけました。そこでまたあの日本軍将校にでくわしたのです。その将校は叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。レイプの後、その将校は立ち去りました。
1942年3月29日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(抗日人民軍)が誕生しました。
パムパカンガ州アンヘルスに逃れた私はフクバラハップ第49中隊の議長である母の従兄弟から、私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問ました。私は応諾しました。母もフクバラハップに協力していました。村の人々はみんな日本軍と戦うフクバラハップに好意的だったのです。
フクバラハップに参加して、私が一番に学んだことは人権尊重ということです。何人も人権を侵害されてはならないという信念は、今も私の心に生きています。「バタアン死の行進」と呼ばれるマリベスから行進してきた捕虜たちを私もこの目でみました。兵隊たちはやせこけ、顔色も蒼白で行進するにはあまりにも弱っていたのです。パルパカンに帰る途中、大勢の日本兵が突然村を襲ってきて、鶏や牛やパパイヤなど奪ったりという村への襲撃と略奪という日本軍の習性を私たちが体験したのはこのような早い時期からでした。
1943年4月のある日、組織の示唆があり、近くの町マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。検問所で、警備兵に連行され、次の日から(6人の女性がいた)、昼の2時から夜10時まで、トラックできた兵隊たちが行列を作って私をレイプする日々が始まりました。毎日12人から20人の兵隊からレイプされました。
水曜ごとに、私たち7人とも日本人医師の検診を受けました。週2~3回は、別の建物で日本軍将校からレイプされました。マラリアに罹った私をレイプした何千人もの日本人、レイプしても満足しない人は私をいつも殴る残酷な彼らの顔が離れません。何千人もの日本兵に虐待されたためにぼろぼろになり、青ざめていく自分を感じました。
1944年1月、ゲリラたちに救出されました。私は9ケ月も日本軍の性奴隷として囚われていたのです。1945年1月、連合軍はリンガエンに上陸し、アンヘルスを開放した後、2月5日にマニラに到着しました。そのころの私は、後遺症として会話が不自由で話しをするとよだれが垂れて、頭がおかしく見えるような娘だったのです。
兵士であったドミンゴから求婚されました。「イエス」という前に私は自分が日本兵にレイプされたことを告白しました。ドミンゴはレイプされたのは過去のことだと言いました。処女でないことを受け入れてくれたのです。
1945年9月頃、ドミンゴと私は同居することになりました。でも結婚の申し込みを正式に受けいれませんでした。
ドミンゴは私に無理にセックスの相手をさせようとはしませんでした。それでもセックスをするたびに、いつも私は自分をレイプする日本兵のイメージに囚われました。それが嫌で嫌でたまりませんでした。
1947年8月13日に長女が生まれました。とてもしあわせでした。その2年後1949年9月2日に次女が誕生しました。しかし、夜中に悪夢でうなされる私は夫に心を閉ざしていたことから、夫の心が冷えてゆくのがわかりました。
夫は米国に支援されるフィリピン国軍に殺されました。1951年12月24日に長男を出産しました。
3人の子どもに恵まれ、母との生活はマールボロ・フィリtプモリスのたばこ工場の工員なったことから安定してきました。1991年に退職してからも、SSS(社会保険制度)の年金があるので何とか暮らしています。子ども3人は結婚して12人の孫と13人の曾孫にめぐまれました。
1992年9月18日、私はカム・アウトをしました。何も知らなかった子どもたち3人も「母さんを愛している。もし母さんが殺されていたら、私たちは今ここにいない」と言っ
てくれました。
「ある日本軍『慰安婦』の回想~フィリピンの現代史を生きて~」(1995年岩波書店)より抜粋
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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