マリア・ロサ・L・ヘンソンさんの証言

私は1927年12月5日に貧農の母フリアと、フリアがメイドとして働いていた大地主のヘンソン氏との間に、マニラ首都圏パサイで生まれました。7歳のとき、父の援助でパサイのカトリック系の聖マリア・アカデミー(女子修道会が経営する私立学校)に7年生まで通いました。そのころの夢は医者になることでした。


母は私が7歳のころから、自分の娘時代の話しをしてくれるようになりました。母は地主や親に従う他になかったこと、私はレイプされて産まれたといういきさつについてでした。母と私は仲の良い親子でした。1963年に亡くなるまで何度も話してくれました。


1941年12月5日、私は14歳になりました。14歳になった私は人生に朗かな希望を抱いていました。けれども3日後の12月8日に大日本帝国の軍隊による真珠湾の奇襲がおこなわれたのです。1941年12月8日の月曜日に学校へ行くと校門のところにたくさん生徒があつまっていました。


戦争が勃発したので、学校が閉鎖されるというニュースが伝えられました。次の日、私の家族も親戚や近所の人たちも一緒にマニラ北方のブラカン州ノルサガライのイポダムに疎開しました。



1942年1月2日、大日本帝国の軍隊が上陸しました。やがて、ウエインライト将軍がマニラの無防備地帯宣言(無防備を公式宣言して国際法により敵の攻撃から守られる都市)をだします。それでわたしたちはパサイの家に戻ることにしました。


2月のある日、家で使う薪をとりにいきました。突然2人の日本兵が私の両腕をつかみました。その時、日本軍将校が「バカ」と叫んで近寄ってきて、私を捉まえていた2人の兵隊を殴りました。その将校は私を二人の兵隊の手からもぎ取ってレイプしました。その後、彼は2人の兵隊に私を与えました。その兵隊たちは順番に私をレイプして立ち去りました。


家に帰ると、この事件に対して誰にも言わないように母は忠告しました。地主にレイプされた母の運命を連想しました。私はまだ生理もない少女だったのです。


それから2週間後、薪採りに出かけました。そこでまたあの日本軍将校にでくわしたのです。その将校は叔父や近所の人たちが見ている目前で私を拉致しました。レイプの後、その将校は立ち去りました。


1942年3月29日、日本の侵略に抵抗する人民の軍隊としてフクバラハップ(抗日人民軍)が誕生しました。
パムパカンガ州アンヘルスに逃れた私はフクバラハップ第49中隊の議長である母の従兄弟から、私にフクバラハップに参加するように誘い、私の意志を問ました。私は応諾しました。母もフクバラハップに協力していました。村の人々はみんな日本軍と戦うフクバラハップに好意的だったのです。


フクバラハップに参加して、私が一番に学んだことは人権尊重ということです。何人も人権を侵害されてはならないという信念は、今も私の心に生きています。「バタアン死の行進」と呼ばれるマリベスから行進してきた捕虜たちを私もこの目でみました。兵隊たちはやせこけ、顔色も蒼白で行進するにはあまりにも弱っていたのです。パルパカンに帰る途中、大勢の日本兵が突然村を襲ってきて、鶏や牛やパパイヤなど奪ったりという村への襲撃と略奪という日本軍の習性を私たちが体験したのはこのような早い時期からでした。




 1943年4月のある日、組織の示唆があり、近くの町マガランに乾燥トウモロコシを集めに行く密使の一人に加わりました。検問所で、警備兵に連行され、次の日から(6人の女性がいた)、昼の2時から夜10時まで、トラックできた兵隊たちが行列を作って私をレイプする日々が始まりました。毎日12人から20人の兵隊からレイプされました。



水曜ごとに、私たち7人とも日本人医師の検診を受けました。週2~3回は、別の建物で日本軍将校からレイプされました。マラリアに罹った私をレイプした何千人もの日本人、レイプしても満足しない人は私をいつも殴る残酷な彼らの顔が離れません。何千人もの日本兵に虐待されたためにぼろぼろになり、青ざめていく自分を感じました。



 1944年1月、ゲリラたちに救出されました。私は9ケ月も日本軍の性奴隷として囚われていたのです。1945年1月、連合軍はリンガエンに上陸し、アンヘルスを開放した後、2月5日にマニラに到着しました。そのころの私は、後遺症として会話が不自由で話しをするとよだれが垂れて、頭がおかしく見えるような娘だったのです。



兵士であったドミンゴから求婚されました。「イエス」という前に私は自分が日本兵にレイプされたことを告白しました。ドミンゴはレイプされたのは過去のことだと言いました。処女でないことを受け入れてくれたのです。
1945年9月頃、ドミンゴと私は同居することになりました。でも結婚の申し込みを正式に受けいれませんでした。
ドミンゴは私に無理にセックスの相手をさせようとはしませんでした。それでもセックスをするたびに、いつも私は自分をレイプする日本兵のイメージに囚われました。それが嫌で嫌でたまりませんでした。



 1947年8月13日に長女が生まれました。とてもしあわせでした。その2年後1949年9月2日に次女が誕生しました。しかし、夜中に悪夢でうなされる私は夫に心を閉ざしていたことから、夫の心が冷えてゆくのがわかりました。
夫は米国に支援されるフィリピン国軍に殺されました。1951年12月24日に長男を出産しました。



3人の子どもに恵まれ、母との生活はマールボロ・フィリtプモリスのたばこ工場の工員なったことから安定してきました。1991年に退職してからも、SSS(社会保険制度)の年金があるので何とか暮らしています。子ども3人は結婚して12人の孫と13人の曾孫にめぐまれました。



 1992年9月18日、私はカム・アウトをしました。何も知らなかった子どもたち3人も「母さんを愛している。もし母さんが殺されていたら、私たちは今ここにいない」と言っ
てくれました。



「ある日本軍『慰安婦』の回想~フィリピンの現代史を生きて~」(1995年岩波書店)より抜粋



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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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