レメディアス・フェリアスさんの証言
★フィリピンの証言者たち - 2013年05月16日 (木)
わたしは、1928年にレイテ島のグラウエン町エスペランサ村で4人姉妹の末っ子として生まれました。
父は農夫として、母は小さな店を構えて一家の生計を立てていました。ほんの少しの土地もありましたので、ココナッツやトウモロコシ、米などを植えていました。
このころのわたしたちの生活は決して貧しいものではなく、家族はみんな向上心を持ちしあわせに暮らしていました。14歳のある日、わたしたちが家の中にいると日本兵がやってきました。「ゲリラはいないか」と母に尋ねました。「ゲリラはいません」と母が答えると、日本兵は帰っていきました。その日本兵は駐屯地でやすんだあと、ヒブナハン村へゲリラ掃討に向かいました。ゲリラ兵は多く殺されました。父自身も、この戦闘に加わり、日本兵と戦ったのです。
それから1週間後、日本兵はわたしの村にやってきました。わたしは、父から逃げるように言われて裏庭に向かい、有刺鉄線を張りめぐらした柵を飛び越えようとして日本兵につかまりました。わたしをつかまえると平手打ちを浴びせ、痛みに声をあげると銃座でわたしの頭を殴り、その場で強かんしたのです。そして、駐屯地に連れていかれました。
そこでは昼の洗濯の仕事がすむと、日本兵たちがきて、てんでに好きな場所にわたしたちを引っ張って行きました。抵抗すれば殴られました。行列をつくって日本兵がわたしたちを強かんしました。黙って従わないと容赦なく暴力を振るわれました。たいへんな数だったので強かんが終わったあとは、もう立ち上がることができませんでした。
ある日、飛行機の爆音が聞こえてきました。日本軍の飛行機だろうと気にしませんでしたが、飛来してきたのはアメリカ軍の飛行機で、爆撃を始めました。すでに日本兵はあちこち避難していました。わたしも日本軍の防空壕に駆け込みました。そこにはすでに日本兵が隠れていました。彼らはわたしを見つけるやいなや抱きつき、強かんしました。
何日かして爆撃がおさまると日本兵が、わたしに防空壕から出ていくように言いました。
外へ出るとアメリカ兵にみつかりましたが、フィリピン兵が現れて、わたしを保護してくれました。アメリカ軍の病院で元気を取り戻すと、家にもどりました。わたしが受けた被害(約1年)を家族に話しました。父は「恥ずかしいことなので、ほかの人にはしられないように」と言いました。
戦争が終わると、17歳になっていたわたしは小学校の1年から勉強することになりましたが、男の子たちの好奇な目を集めることになり学校をやめました。
1947年、わたしは結婚し、家から独立しました。姉が夫にわたしの日本兵からの強かんされたことを話したため、夫とはうまくいかなくなりました。1948年1月にわたしは一人で故卿を離れ、マニラにいきました。
マニラについたときは、タガログ語も英語も(二つの言語ともフィリピンの公用語)できなかったので、そこでまず子守の仕事を3年ほどしました。タガログ語が話せるようになり、今度は食べ物を売る店で働くようになりました。
そこで、一人の男性と知り合い、彼からプロポーズされたのです。彼には自分の体験を話したところ「過去のことなど忘れてしまえる」といってくれたので、1952年に一緒になり、男ばかり4人の子どもをもうけました。夫は1960年に亡くなりました。その時、子どもは6歳、4歳、3歳、1歳でした。
「『もうひとつのレイテ戦』~日本軍に捕えられた少女の絵日記」(1999年・木犀社)より抜粋
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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