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レメディアス・フェリアスさんの証言



わたしは、1928年にレイテ島のグラウエン町エスペランサ村で4人姉妹の末っ子として生まれました。
父は農夫として、母は小さな店を構えて一家の生計を立てていました。ほんの少しの土地もありましたので、ココナッツやトウモロコシ、米などを植えていました。


このころのわたしたちの生活は決して貧しいものではなく、家族はみんな向上心を持ちしあわせに暮らしていました。14歳のある日、わたしたちが家の中にいると日本兵がやってきました。「ゲリラはいないか」と母に尋ねました。「ゲリラはいません」と母が答えると、日本兵は帰っていきました。その日本兵は駐屯地でやすんだあと、ヒブナハン村へゲリラ掃討に向かいました。ゲリラ兵は多く殺されました。父自身も、この戦闘に加わり、日本兵と戦ったのです。


それから1週間後、日本兵はわたしの村にやってきました。わたしは、父から逃げるように言われて裏庭に向かい、有刺鉄線を張りめぐらした柵を飛び越えようとして日本兵につかまりました。わたしをつかまえると平手打ちを浴びせ、痛みに声をあげると銃座でわたしの頭を殴り、その場で強かんしたのです。そして、駐屯地に連れていかれました。


 そこでは昼の洗濯の仕事がすむと、日本兵たちがきて、てんでに好きな場所にわたしたちを引っ張って行きました。抵抗すれば殴られました。行列をつくって日本兵がわたしたちを強かんしました。黙って従わないと容赦なく暴力を振るわれました。たいへんな数だったので強かんが終わったあとは、もう立ち上がることができませんでした。


 ある日、飛行機の爆音が聞こえてきました。日本軍の飛行機だろうと気にしませんでしたが、飛来してきたのはアメリカ軍の飛行機で、爆撃を始めました。すでに日本兵はあちこち避難していました。わたしも日本軍の防空壕に駆け込みました。そこにはすでに日本兵が隠れていました。彼らはわたしを見つけるやいなや抱きつき、強かんしました。


何日かして爆撃がおさまると日本兵が、わたしに防空壕から出ていくように言いました。
外へ出るとアメリカ兵にみつかりましたが、フィリピン兵が現れて、わたしを保護してくれました。アメリカ軍の病院で元気を取り戻すと、家にもどりました。わたしが受けた被害(約1年)を家族に話しました。父は「恥ずかしいことなので、ほかの人にはしられないように」と言いました。


 戦争が終わると、17歳になっていたわたしは小学校の1年から勉強することになりましたが、男の子たちの好奇な目を集めることになり学校をやめました。




1947年、わたしは結婚し、家から独立しました。姉が夫にわたしの日本兵からの強かんされたことを話したため、夫とはうまくいかなくなりました。1948年1月にわたしは一人で故卿を離れ、マニラにいきました。
マニラについたときは、タガログ語も英語も(二つの言語ともフィリピンの公用語)できなかったので、そこでまず子守の仕事を3年ほどしました。タガログ語が話せるようになり、今度は食べ物を売る店で働くようになりました。


そこで、一人の男性と知り合い、彼からプロポーズされたのです。彼には自分の体験を話したところ「過去のことなど忘れてしまえる」といってくれたので、1952年に一緒になり、男ばかり4人の子どもをもうけました。夫は1960年に亡くなりました。その時、子どもは6歳、4歳、3歳、1歳でした。



「『もうひとつのレイテ戦』~日本軍に捕えられた少女の絵日記」(1999年・木犀社)より抜粋



「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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