3、フィリピンの「慰安婦」(性奴隷)の特徴
★アジア各国の被害状況 - 2013年08月13日 (火)

3、フィリピンの「慰安婦」(性奴隷)の特徴
日本軍は南方政策において、中国戦線から直接移動してきており、軍装備以外の補給はなく「現地調達」を原則にしていた。そこで、食糧、居住用建物、その他の物質の調達を暴力的に略奪していた。同時にフィリピン女性に対するレイプ、それに続いて女性を囲みこみ性奴隷とした。
この住民への暴力の背景には、「現地調達」のためだけでなく、抗日ゲリラの撲滅の目的でもあった。この抗日ゲリラにはアメリカ軍と強い繋がりを持ったユサップフェゲリラや、フィリピンの共産党や社会党の影響下にあった農民が組織したフクバラハップ(抗日人民軍)があった。
また、ルソン、パナイ、マニラなどにも抗日ゲリラの組織がいくつもあった。日本軍は飢えと病気、長期の軍隊生活、ゲリラとの戦いに荒み、軍としての規律も希薄であり、はけ口として現地フィリピン女性へのレイプが多発した。
フィリピンの「慰安婦」の特徴として、日本軍「慰安婦」制度での性奴隷と占領地のフィリピン女性に対するレイプとそれに続く駐屯地での監禁・性奴隷化の二つに分類できる。
この分類を「資料集 日本軍にみる性管理と暴力」(2008年・梨の木舎)の資料からみてみる。
●1、日本軍「慰安婦」制度での性奴隷
1942年5月~11月のパナイ島イロイロの第44碇泊場出長所日報綴によるとマニラより24名の台湾女性が慰安所に送られてきている。その後何度かの入れ替わりがあった。1週間に1回の医師による検黴の結果をみると、徐々に性病の罹患率があがっている。
また、1942年4月1日~11月30日独立守備歩兵第35大隊第1中隊陣中日誌によると、ブツアンにフィリピン女性3名をおき慰安所を開設したと記録されている。つづいて、マスパテ島、ブツアン、ミンダナオ島のカガヤン、セブ島などに慰安所が設置されている。また、朝鮮人女性、日本人女性の存在が記録されている。
また「陸亜密大日記」(1942年)では、マニラ軍政支部が、邦人「ホテル」業者に営業禁止を命じたものが4件あり、在留邦人が「ホテル」名義の下にフィリピン女性に売春行為をさせているとして営業禁止を命じている。
以上のことから、性病管理ができる軍「慰安所」を各地に作りながら、一方では性病管理のできない私設の慰安所は取り締まったことがわかる。つまり、フィリピン戦線が進むと同時に兵士の性病の蔓延という問題がでてきたからである。
●2、占領地のフィリピン女性に対する強姦とそれに続く駐屯地での監禁・性奴隷化
1942年、タクロガン憲兵分隊雑書綴に強姦被告事件の投書が載っている。レイテ島タウワン町カタツグコツグ部落の一住民よりレイテ州知事宛に、カタツクコング部落に駐屯する部隊の略奪、レイプに関する件で、兵士たちの食糧、衣服などの生活必需品の強奪、泥酔しながら家々に女性を探して(妊婦も含めて)強かんしているとして、地球上最も下劣な不道徳な行為だと訴えている。また、このような強奪および殺害女性へのレイプに対しての調書が多数記録されている。
日本軍による「現地調達」と称する強奪・略奪により農村の疲弊化が進み、産業が壊滅するとともに、生活の逼迫状態はその度を増していった。女性たちは日常の生活の中(薪の調達、洗濯など)でレイプされ、その後拉致され、駐屯地での性奴隷になったものが多い。また、反日ゲリラのいる村は男性を虐殺し村を焼いたあと、女性をレイプしたという。(住民虐殺・集団レイプ)
1945年のフィリピンへの米軍上陸以降、日本軍は「占領地」から撤退、敗走を余儀なくされた。日本兵はそれまで以上に「現地生活」という名目のもとで、食料確保に奔走したが、実際はマラリアなど熱病や栄養失調、餓死との戦いであった。同時にフィリピン住民は日本兵から暴力・虐殺・女性へのレイプなどのありとあらゆる暴力でいかに苦しめられたかがわかる。また、この様な虐待・レイプは教会や公的施設、地主の家などの日本軍が駐留していた場所で行なわれた。
4「 慰安婦」となった女性たちの証言
1991年、元「慰安婦」として初めて韓国の金学順さんが名乗り出た。これに呼応して「アジア人権評議会(AWHRC)」は、ラジオ放送を通して被害者に名乗り出るように呼びかけた。1992年10月、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんが初めて自分の体験を明らかにした。1993年には被害女性46名が日本政府による賠償を求めて、東京地方裁判所にフィリピン「従軍慰安婦」国家補償請求裁判をおこした。
筆者がフィリピンの被害女性たちの証言、フェアリスさんとヘンソンさんの手記を読み、またリラ・ピリピーナでの被害女性との短い時間での出会いの中で印象に残ったことは、被害女性の静謐さと自分の権利をきちんと主張する姿勢であった。フィリピンはカトリック教で、女性の「純潔や処女性」に大きな価値観を持っている。だが、フィリピンでは結婚した人もしなかった人も、ほとんどの人が家族に囲まれて生きてきている。
この「家族」は血のつながりでなく家族・親族という拡大家族である。
このような拡大家族に被害女性たちは包摂されることで、戦後を生きることができたのではないだろうか。また、子ども達も母親の被害に対して驚きはしたものの「お母さんが死んでいたら私はいなかった」として被害の現実を受け止めている。
現在の若いフィリピン人はどう考えているのかわからないが、40代半ばの在日フィリピン女性との話しあう中で、親には「恩」があるという言葉を聞いていた。その時は、日本の「親孝行」と同じ意味だと思っていた。だが、この「恩」の意味は「私を生んでくれてありがとう」という意味でもあったのだと理解できた。

「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(紀)
参考文献および資料
児島襄(1989)「太平洋戦争・上下」中央公論社
鈴木静夫(1997)「物語フィリピンの歴史」中央公論社
戦地性暴力を調査する会編(2008)「資料集・日本軍にみる性管理と性暴力」梨の木舎
永井均(2013)「フィリピンと対日戦犯裁判1945-1953」岩波書店
フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編(1995)「フィリピンの日本軍『慰安婦』明石書店
VAWW-NETジャパン編(2000)「『慰安婦』・戦時性暴力の実態Ⅱ」緑風出版
マリア・ロサ・L・ヘンソン(1995)「ある日本軍『慰安婦』の回想」岩波書店
吉見義明(2005)「従軍慰安婦」岩波新書
吉見義明(2010)「日本軍『慰安婦』制度とは何か」岩波書店
レメディアス・フェリアス(1999)「もうひとつのレイテ戦」木犀社
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
.
スポンサーサイト