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フィリピンでの性暴力被害

1 フィリピンの歴史

面積は299、404平方キロメートル(日本の8割)で7109の島々があり、これらの島の数はインドネシアの次に多い。多民族国家であり、言語が80前後ある。公用語はタガログ語(マニラ近郊の言葉)と英語である。宗教は国民の83%がカトリック教である。

1571年から1898年までスペインの植民地としてローマ・カトリック教が深く浸透した。1898年、アメリカ・スペイン戦争でアメリカ合衆国が勝利し、パリ講和条約によりフィリピンはアメリカの支配する植民地となったことで、アメリカの公教育制度、民主主義、価値観、文化をフィリピンに植え付けた。

1935年に「タイデイングス=マックフィ法」(フィリピン独立法)が成立し、アメリカに有利な関税制度と引き換えではあったが、フィリピンに10年後の独立を約束していた。だが、1942年に日本軍政が敷かれ、1945年の終戦により日本軍は撤退した。
1946年にフィリピン共和国として独立した。



2 太平洋戦争(フィリピン)

1941年12月8日午後1時半(真珠湾攻撃から10時間後)に、日本軍(台湾から2編隊)がルソン島中部のクラーク、イバの両空軍基地を爆撃し、米軍はほとんどフィリピンの制空権を失う。

12月12日に日本軍は台湾から師団(3万4千人)リンガエン湾に、満州からの師団(約7千人)が24日にラモン湾に上陸した。両師団は27日にマニラ市に入った。
そして1942年1月2日のマニラ市を焼撃し、陥落させ、日本軍政部を設置した。
アメリカ極東軍の全軍(ほとんどがフィリピン人兵)はマニラ湾口のコレヒドール島に立てこもった。


日本軍は4月4日にバタヤン半島を、5月7日にコレヒドール島を陥落させた。すでにマヌエル・ケソン大統領はアメリカ(2月20日)に、米軍司令官ダグラス・マッカーサーはオーストラリア(3月11日)に、コレヒドール島から脱出していた。


日本軍の捕虜虐待でよく知られる「パターン死の行進」は、コレヒドール島陥落後、アメリカ極東軍兵士および住民6万人~10万人を、パターン半島マリベレスからオードネル捕虜収容所まで約100キロメートルを強制的に徒歩で移動させた。


乾季の猛暑の中でマラリア、赤痢、デング熱などの病気あるいは飢えで行進中の兵士はつぎつぎに倒れたが日本軍は彼らを容赦なく虐待し、ときには虐殺した。
5000人~18000人が死亡したと推察される。


1943年10月14日、日本軍はホセ・P・ラウレルを大統領とする傀儡政権下でフィリピン共和国を発足させ、形式的に日本の軍政は廃止された。


1944年10月21日レイテ島(日本軍約2万人)にマッカーサーは10万5000人の大軍を率いて上陸した。23日~26日までレイテ島沖海戦で日本海軍は敗れ、壊滅的打撃を被った。1945年2月3日~23日にマニラ地上戦となった。


このマニラ戦で日本軍による一般市民の大量虐殺がおこなわれた。
アメリカ極東軍は1945年2月25日~5月4日までに、パラワン、バライ、セブ、ネグロス、ミンダナオ島ダバオを占領することによって、日本軍からフィリピン全土を解放した。


これによってフィリピンにおけるアジア太平洋戦争が終結した。フィリピン人戦没者は約110万人にもおよんだ。日本軍兵士は61万3600名中49万8600名が戦病死・餓死した。


  

                  
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(紀)




参考文献および資料
児島襄(1989)「太平洋戦争・上下」中央公論社
鈴木静夫(1997)「物語フィリピンの歴史」中央公論社
戦地性暴力を調査する会編(2008)「資料集・日本軍にみる性管理と性暴力」梨の木舎
永井均(2013)「フィリピンと対日戦犯裁判1945-1953」岩波書店
フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編(1995)「フィリピンの日本軍『慰安婦』明石書店
VAWW-NETジャパン編(2000)「『慰安婦』・戦時性暴力の実態Ⅱ」緑風出版
マリア・ロサ・L・ヘンソン(1995)「ある日本軍『慰安婦』の回想」岩波書店
吉見義明(2005)「従軍慰安婦」岩波新書
吉見義明(2010)「日本軍『慰安婦』制度とは何か」岩波書店
レメディアス・フェリアス(1999)「もうひとつのレイテ戦」木犀社




                     
 「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク





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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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