韓国・朝鮮の日本軍「慰安婦」
★アジア各国の被害状況 - 2013年07月30日 (火)
「慰安婦」問題のはじまりー社会化
韓国では、1945年に植民地から解放されても「慰安婦」女性のことは、公にはほとんど語られることはありませんでしたが、1980年から尹貞玉(ユン・ジュンオク)さん(当時 梨花女子大学教授)は、北海道、沖縄、タイ、パプア・ニューギニアの「慰安婦」被害女性たちの足跡調査を始めました。その調査結果を90年1月にハンギョレ新聞に発表し、日本軍「慰安婦」の存在が広く知られるようになりました。さらに、日本の国会での「慰安婦」問題についての政府答弁(「あれは民間業者がやったこと」)に対する公開書簡が契機となり同年11月に民主化運動を担った女性運動家や女性団体が集まって韓国挺身隊問題対策協議会(略称:挺対協)が結成され「挺身隊(慰安婦)」問題として社会化されました。
(戦後ずっと韓国社会では、「慰安婦」と「挺身隊」は同じ意味で使われてきました。挺身隊として動員され「慰安婦」にされたと思い込まれていました。何故このような「誤解」が生まれたのか
別文で論考したいと思います。)
翌91年8月、金学順(キム・ハクスン)さん(97年2月没)が元「慰安婦」であったことを初めて名乗り出、同年12月に補償を求めて東京地裁に提訴、日本社会でも一挙に社会問題化しました。そして、台湾、フィリピン、中国、オランダなどでも名乗り出る人が現れ、各国に支援団体がつくられていきました。
日本軍「慰安婦」に朝鮮人女性が多いのは・・・・
「慰安婦」にされた女性たちは、各国ごとに違っています。朝鮮人女性の場合は、未成年の少女が「良い働き口がある」などとだまされて、アジア各地の慰安所に連れて行かれたケースが大半です。
背景の第1は、日本の植民地政策による朝鮮の状況があります。とくに多くの農民は、土地や食糧を奪われ、極貧の生活でした。未成年の少女たちは、教育を受けることもできず、一家の働き手として仕事をしなければなりませんでした。そうした彼女たちの貧しさや無知につけ込み「金儲けができる」「仕事がある」などと、斡旋業者が甘言で騙して彼女たちを動員していったのです。このような貧困を背景にした詐欺・甘言によるケースは「慰安婦」証言の中でももっとも多くみられます。
(★当ブログの証言者たちのページをご覧ください)
第2は、日本の公娼制度の朝鮮への導入です。1916年「貸座敷娼妓取締規制」脚注1を公布し、各道に異なっていた取締規則を統一し、日本と同様の公娼制度が確立しました。(当時年齢制限17歳、日本は18歳、自由廃業の規定がないなど日本より劣悪でした)
1938年1月上海に陸軍の慰安所が設置され、これ以降、日中戦争の拡大に伴い、慰安所設置が急務となり、日本軍は「慰安婦」集めに迫られ、日本・朝鮮の斡旋業者を選んで女性の募集に当たらせます。斡旋業者は、公娼制度下での女性売買ルートを利用して甘言、詐欺などの手段を使って慰安所に連れて行きました。
日本政府は「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」脚注2(1925年)に加入し、21歳未満の女性たちの売春を禁止していました。しかし、年齢条項は植民地には適用しないという留保条件をつけたため、朝鮮・台湾の多くの女性たちが未成年で日本軍「慰安婦」にされました。
こうした根底には、朝鮮人女性への根深い民族差別意識があったことは事実です。
解放後も生きることの困難
慰安所で受けた傷痕の大きさと深さは帰国後、彼女たちの生の全過程に影響を及ぼしています。生き残って故郷に戻っても、貞操観念が強かった当時の韓国社会の中では、家族にも打ち明けられず、過去を隠さざるをえませんでした。ほとんどが人間不信、屈辱感、劣等感などいやしがたい心の傷を抱えながら、さまざまな病気に今なお苦しんでいます。
南北分断を超えて
朝鮮半島は、1948年大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断されました。韓国では挺対協を中心にした支援活動が活発で国内外に留まらず、国連に持ち込んで国際世論化していきました。他方、北朝鮮でも1992年「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」(略称:従対委)が設立され、被害の調査や補償問題を解決する運動を繰り広げています。
南北コリアは、2012年10月22日からスイスのジュネーブ人権本部で開催された国連人権理事会 日本人権UPR(Universal Periodic Review)審議において、中国、オランダ、コスタリカ、東ティモールなど各国政府と共に、日本軍「慰安婦」被害者に対する謝罪、賠償および問題解決を求める勧告をだしました。UPR審議で出された勧告を日本政府が履行するよう挺対協は、国内外市民社会と協力し、持続的な活動を繰り広げていくとしています。
(★挺対協報道資料/2012.11.11)
〔脚註〕
*1
1910年の日韓併合により、公娼制度が導入されたが、各道によって規制が異なっていため、1916年の「貸座敷娼妓取締規制」で、従来の「第二種」料理店、「乙種」芸妓などの不明確な呼称を廃止し、日本に合わせて「貸し座敷」「娼妓」として取り扱うように統一。この法令によって、朝鮮における植民地公娼制度が確立。
*2
婦女売買取締に関する国際条約は、「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際協定」(1904年)、「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」(1910年)、内容を強化した「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1921年)の3つがあり、日本は1925年に加入。売春目的で女性を売買することは、未成年の場合は本人の承諾があっても不可、成年の場合も詐欺・暴行・脅迫などの強制によるものは不可。年齢は10年の条約では20歳だったが、21年の禁売条約で21歳に引き上げられた。しかし日本政府は、植民地である朝鮮・台湾には適用しないとの留保条件を付けた。
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韓国では、1945年に植民地から解放されても「慰安婦」女性のことは、公にはほとんど語られることはありませんでしたが、1980年から尹貞玉(ユン・ジュンオク)さん(当時 梨花女子大学教授)は、北海道、沖縄、タイ、パプア・ニューギニアの「慰安婦」被害女性たちの足跡調査を始めました。その調査結果を90年1月にハンギョレ新聞に発表し、日本軍「慰安婦」の存在が広く知られるようになりました。さらに、日本の国会での「慰安婦」問題についての政府答弁(「あれは民間業者がやったこと」)に対する公開書簡が契機となり同年11月に民主化運動を担った女性運動家や女性団体が集まって韓国挺身隊問題対策協議会(略称:挺対協)が結成され「挺身隊(慰安婦)」問題として社会化されました。
(戦後ずっと韓国社会では、「慰安婦」と「挺身隊」は同じ意味で使われてきました。挺身隊として動員され「慰安婦」にされたと思い込まれていました。何故このような「誤解」が生まれたのか

翌91年8月、金学順(キム・ハクスン)さん(97年2月没)が元「慰安婦」であったことを初めて名乗り出、同年12月に補償を求めて東京地裁に提訴、日本社会でも一挙に社会問題化しました。そして、台湾、フィリピン、中国、オランダなどでも名乗り出る人が現れ、各国に支援団体がつくられていきました。
日本軍「慰安婦」に朝鮮人女性が多いのは・・・・
「慰安婦」にされた女性たちは、各国ごとに違っています。朝鮮人女性の場合は、未成年の少女が「良い働き口がある」などとだまされて、アジア各地の慰安所に連れて行かれたケースが大半です。
背景の第1は、日本の植民地政策による朝鮮の状況があります。とくに多くの農民は、土地や食糧を奪われ、極貧の生活でした。未成年の少女たちは、教育を受けることもできず、一家の働き手として仕事をしなければなりませんでした。そうした彼女たちの貧しさや無知につけ込み「金儲けができる」「仕事がある」などと、斡旋業者が甘言で騙して彼女たちを動員していったのです。このような貧困を背景にした詐欺・甘言によるケースは「慰安婦」証言の中でももっとも多くみられます。

第2は、日本の公娼制度の朝鮮への導入です。1916年「貸座敷娼妓取締規制」脚注1を公布し、各道に異なっていた取締規則を統一し、日本と同様の公娼制度が確立しました。(当時年齢制限17歳、日本は18歳、自由廃業の規定がないなど日本より劣悪でした)
1938年1月上海に陸軍の慰安所が設置され、これ以降、日中戦争の拡大に伴い、慰安所設置が急務となり、日本軍は「慰安婦」集めに迫られ、日本・朝鮮の斡旋業者を選んで女性の募集に当たらせます。斡旋業者は、公娼制度下での女性売買ルートを利用して甘言、詐欺などの手段を使って慰安所に連れて行きました。
日本政府は「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」脚注2(1925年)に加入し、21歳未満の女性たちの売春を禁止していました。しかし、年齢条項は植民地には適用しないという留保条件をつけたため、朝鮮・台湾の多くの女性たちが未成年で日本軍「慰安婦」にされました。
こうした根底には、朝鮮人女性への根深い民族差別意識があったことは事実です。
解放後も生きることの困難
慰安所で受けた傷痕の大きさと深さは帰国後、彼女たちの生の全過程に影響を及ぼしています。生き残って故郷に戻っても、貞操観念が強かった当時の韓国社会の中では、家族にも打ち明けられず、過去を隠さざるをえませんでした。ほとんどが人間不信、屈辱感、劣等感などいやしがたい心の傷を抱えながら、さまざまな病気に今なお苦しんでいます。
南北分断を超えて
朝鮮半島は、1948年大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国に分断されました。韓国では挺対協を中心にした支援活動が活発で国内外に留まらず、国連に持ち込んで国際世論化していきました。他方、北朝鮮でも1992年「従軍慰安婦・太平洋戦争被害者補償対策委員会」(略称:従対委)が設立され、被害の調査や補償問題を解決する運動を繰り広げています。
南北コリアは、2012年10月22日からスイスのジュネーブ人権本部で開催された国連人権理事会 日本人権UPR(Universal Periodic Review)審議において、中国、オランダ、コスタリカ、東ティモールなど各国政府と共に、日本軍「慰安婦」被害者に対する謝罪、賠償および問題解決を求める勧告をだしました。UPR審議で出された勧告を日本政府が履行するよう挺対協は、国内外市民社会と協力し、持続的な活動を繰り広げていくとしています。

「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(鶴)
〔脚註〕
*1
1910年の日韓併合により、公娼制度が導入されたが、各道によって規制が異なっていため、1916年の「貸座敷娼妓取締規制」で、従来の「第二種」料理店、「乙種」芸妓などの不明確な呼称を廃止し、日本に合わせて「貸し座敷」「娼妓」として取り扱うように統一。この法令によって、朝鮮における植民地公娼制度が確立。
*2
婦女売買取締に関する国際条約は、「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際協定」(1904年)、「醜業を行わしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」(1910年)、内容を強化した「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1921年)の3つがあり、日本は1925年に加入。売春目的で女性を売買することは、未成年の場合は本人の承諾があっても不可、成年の場合も詐欺・暴行・脅迫などの強制によるものは不可。年齢は10年の条約では20歳だったが、21年の禁売条約で21歳に引き上げられた。しかし日本政府は、植民地である朝鮮・台湾には適用しないとの留保条件を付けた。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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