南二僕 (Nan Erpu) さん (証言は養女 楊秀蓮さん)
★中国の証言者たち - 2013年05月16日 (木)
南二僕 (Nan Erpu)
1923年 盂県南頭村生まれ 1967年自死 証言は養女 楊秀蓮
【養母・南二僕の遺言】
私・楊秀蓮は1964年生まれで、生後70日ほどで楊喜順、南二僕夫婦の養女になり、育てられました。数えで13歳くらいだった小学校3年生の時のことです。「憶苦思甜(昔の苦しみを思い 今の幸せをかみしめる)」の大会があり、河東村の李春富という老人が「抗日戦争の時代に盂県城から西煙鎮北部に日本軍が来て砲台を築き、羊馬山にも砲台注1を作った。そして元気な人を捕まえて働かせ、村に入って村人を殺したり、女性を強かんした」と語りました。その話に私の養母・南ニ僕が出てきたのです。私は「強かん」の意味がわからなくて養父・楊喜順に尋ねると、父は泣きながら私を抱きしめ、「お前が大人になったらすべて話す」と言いました。親戚や村人たちも母のことを知っているようでしたが、話してくれませんでした。
全てがわかったのは1993年、父が肝臓ガンで死ぬ直前です。「お母さんは『この子が大きくなったら私の被害を全て話して、私の無念を晴らしてもらいたい』と言い残して亡くなった。お前が数えで4歳の時だ」と話してくれたのです。
【日本軍の隊長に占有されて 男子を出産】
母は17歳で、幼い時に決められた20歳以上も年上の男性と結婚しましたが、婚家とも夫ともうまくいかず、日本軍が南頭村を掃討にきた1942年の春には、実家に戻っていました。
祖母の家は、村の人が「バカ隊長」と呼んでいた下士官に襲われ、母は強かんされた後、河東村の村の中につくられた警備隊注2砲台近くの家に監禁されました。隊長に強かんされる日々は1年半続き、その間には下士官の子どもを妊娠してしまい、男の子を出産しますが、まもなく死んでしまいました。
母の実家は裕福な一族だったので、母を取り戻そうと一族の土地を売って日本軍にお金を渡したのに帰されず、財産も無くして、祖父と親族の仲は険悪になりました。
バカ隊長が異動でいなくなると母は逃げ出しました。しかし「ミャオジ」と呼ばれる古参兵にみつかり、今度は夜になると羊馬山の砲台へ連行されてたくさんの日本兵に強かんされるようになりました。耐えかねた母が逃亡に成功すると、「ミャオジ」は怒って親族を脅して罰を与え、母の実家を焼き払いました。母は日本軍が盂県から撤退するまで、村には戻れませんでした。
【戦後には「歴史的反革命」の烙印】
戦後も苦難の連続でした。1950年代前半に始まった「三反五反運動」という綱紀粛正運動で、母は「日本兵と長く一緒にいて子どもまで産んだ」ことを理由に「歴史的反革命」の罪に問われて、3年間投獄されました。その後、日本兵と長くいたのも子を産んだのも母の責任ではないと、冤罪は晴れましたが、「歴史的反革命」という烙印はなくなることはありませんでした。60年代後半の文化大革命では、「歴史的反革命」と書いた札を首から下げさせられたり、重い労働をさせられました。
父は母の被害事実を全て知った上で、家族の反対を押し切って母と結婚した人です。夫婦仲は睦まじく、母をそのような迫害から庇護しようとして、自分まで母と同じ仕打ちを受けました。そして文革が最も激しかった1967年、母は被害の後遺症である婦人病が悪化したことにも苦しみ、首を吊って死んでしまったのです。
【母の名誉回復を求めて】
私は父からすべて聞いた後、すぐに母の弟にも話を聞き、母の遺志を果す決意を固めました。夫・楊建英と共に村の古老たちに聞き取りをして母の被害事実をさらに詳しく調べ、日本政府に謝罪と損害賠償を求める裁判を起こしました。「日本軍の協力者」とされてきた母は、村の中でも「被害者」と呼ばれるようになりました。
母の亡骸は、以前は父の一族の墓地への埋葬を許されませんでしたが、今では羊馬山の麓に父の墓と並んで祀られています。日本の友人たちと母の墓参りができたとき、嬉しくて嬉しくて涙が溢れて仕方がありませんでした。
裁判は負けてしまいましたが、私は母の名誉を回復するためにも、母の被害を訴え続けていきます。特に、母のような日本軍から性暴力を受けた女性たちの被害が二度と起きないように、平和な世界を願って、次の世代の子どもたちに教育されることを望みます。
【用語説明】
1)砲台:日本軍が盂県各地に設置した分遣隊の軍事施設を指す。中国語の「炮楼」「炮台」の日本語訳。日本語本来の「砲台」はより大規模、重装備の構造物に関して使用されるが、ここでは、迫撃砲どまりの小重火器を備えたトーチカ陣地を指す。
2)警備隊:傀儡政権の地方軍。実際には日本軍の手先として機能した。河東村には、羊馬山山頂に日本軍のトーチカ陣地が、村内に警備隊の陣地が築かれた。
【参考および参照した文献や記録】
■『黄土の村の性暴力~大娘たちの戦争は終わらない』
石田米子・内田知行編/創土社/2004年
(中国語版は『発生在黄土村庄里的日軍性暴力』趙金貴訳/社会科学文献出版社/
2008年)
■『今こそ、この思いを!―中国山西省性暴力被害者の訴え―』
中国における日本軍の性暴力の実態を明らかにし、賠償請求裁判を支援する会編/
2000年5月
■中国での日本軍性暴力パネル展の個人パネル
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【養母・南二僕の遺言】
私・楊秀蓮は1964年生まれで、生後70日ほどで楊喜順、南二僕夫婦の養女になり、育てられました。数えで13歳くらいだった小学校3年生の時のことです。「憶苦思甜(昔の苦しみを思い 今の幸せをかみしめる)」の大会があり、河東村の李春富という老人が「抗日戦争の時代に盂県城から西煙鎮北部に日本軍が来て砲台を築き、羊馬山にも砲台注1を作った。そして元気な人を捕まえて働かせ、村に入って村人を殺したり、女性を強かんした」と語りました。その話に私の養母・南ニ僕が出てきたのです。私は「強かん」の意味がわからなくて養父・楊喜順に尋ねると、父は泣きながら私を抱きしめ、「お前が大人になったらすべて話す」と言いました。親戚や村人たちも母のことを知っているようでしたが、話してくれませんでした。
全てがわかったのは1993年、父が肝臓ガンで死ぬ直前です。「お母さんは『この子が大きくなったら私の被害を全て話して、私の無念を晴らしてもらいたい』と言い残して亡くなった。お前が数えで4歳の時だ」と話してくれたのです。
【日本軍の隊長に占有されて 男子を出産】
母は17歳で、幼い時に決められた20歳以上も年上の男性と結婚しましたが、婚家とも夫ともうまくいかず、日本軍が南頭村を掃討にきた1942年の春には、実家に戻っていました。
祖母の家は、村の人が「バカ隊長」と呼んでいた下士官に襲われ、母は強かんされた後、河東村の村の中につくられた警備隊注2砲台近くの家に監禁されました。隊長に強かんされる日々は1年半続き、その間には下士官の子どもを妊娠してしまい、男の子を出産しますが、まもなく死んでしまいました。
母の実家は裕福な一族だったので、母を取り戻そうと一族の土地を売って日本軍にお金を渡したのに帰されず、財産も無くして、祖父と親族の仲は険悪になりました。
バカ隊長が異動でいなくなると母は逃げ出しました。しかし「ミャオジ」と呼ばれる古参兵にみつかり、今度は夜になると羊馬山の砲台へ連行されてたくさんの日本兵に強かんされるようになりました。耐えかねた母が逃亡に成功すると、「ミャオジ」は怒って親族を脅して罰を与え、母の実家を焼き払いました。母は日本軍が盂県から撤退するまで、村には戻れませんでした。
【戦後には「歴史的反革命」の烙印】
戦後も苦難の連続でした。1950年代前半に始まった「三反五反運動」という綱紀粛正運動で、母は「日本兵と長く一緒にいて子どもまで産んだ」ことを理由に「歴史的反革命」の罪に問われて、3年間投獄されました。その後、日本兵と長くいたのも子を産んだのも母の責任ではないと、冤罪は晴れましたが、「歴史的反革命」という烙印はなくなることはありませんでした。60年代後半の文化大革命では、「歴史的反革命」と書いた札を首から下げさせられたり、重い労働をさせられました。
父は母の被害事実を全て知った上で、家族の反対を押し切って母と結婚した人です。夫婦仲は睦まじく、母をそのような迫害から庇護しようとして、自分まで母と同じ仕打ちを受けました。そして文革が最も激しかった1967年、母は被害の後遺症である婦人病が悪化したことにも苦しみ、首を吊って死んでしまったのです。
【母の名誉回復を求めて】
私は父からすべて聞いた後、すぐに母の弟にも話を聞き、母の遺志を果す決意を固めました。夫・楊建英と共に村の古老たちに聞き取りをして母の被害事実をさらに詳しく調べ、日本政府に謝罪と損害賠償を求める裁判を起こしました。「日本軍の協力者」とされてきた母は、村の中でも「被害者」と呼ばれるようになりました。
母の亡骸は、以前は父の一族の墓地への埋葬を許されませんでしたが、今では羊馬山の麓に父の墓と並んで祀られています。日本の友人たちと母の墓参りができたとき、嬉しくて嬉しくて涙が溢れて仕方がありませんでした。
裁判は負けてしまいましたが、私は母の名誉を回復するためにも、母の被害を訴え続けていきます。特に、母のような日本軍から性暴力を受けた女性たちの被害が二度と起きないように、平和な世界を願って、次の世代の子どもたちに教育されることを望みます。
「中国における日本軍の性暴力の実態を明らかにし賠償請求裁判を支援する会」より提供
【用語説明】
1)砲台:日本軍が盂県各地に設置した分遣隊の軍事施設を指す。中国語の「炮楼」「炮台」の日本語訳。日本語本来の「砲台」はより大規模、重装備の構造物に関して使用されるが、ここでは、迫撃砲どまりの小重火器を備えたトーチカ陣地を指す。
2)警備隊:傀儡政権の地方軍。実際には日本軍の手先として機能した。河東村には、羊馬山山頂に日本軍のトーチカ陣地が、村内に警備隊の陣地が築かれた。
【参考および参照した文献や記録】
■『黄土の村の性暴力~大娘たちの戦争は終わらない』
石田米子・内田知行編/創土社/2004年
(中国語版は『発生在黄土村庄里的日軍性暴力』趙金貴訳/社会科学文献出版社/
2008年)
■『今こそ、この思いを!―中国山西省性暴力被害者の訴え―』
中国における日本軍の性暴力の実態を明らかにし、賠償請求裁判を支援する会編/
2000年5月
■中国での日本軍性暴力パネル展の個人パネル
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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