趙潤梅(Zhao Runmei)さんの証言

趙潤梅(Zhao Runmei)

 趙潤梅  1925年盂県西煙鎮南村生まれ 2008年永眠

                       
 私は1925年山西省盂県西煙鎮南村で三人姉妹の長女として生まれました。私が3歳の時、母は下の妹を産んだ後に亡くなり、私は養父母に預けられることになりました。養父母の家には義理の兄が二人、姉が一人いましたが、皆仲が良く私をかわいがってくれました。


【それは数え年17歳の早春のことでした】

忘れることができない被害を受けたのは、私が数え年17歳の1941年旧暦4月2日の早朝のことです。河東村に駐屯していた日本軍と警備隊が大勢で西煙鎮を襲ってきたのです。「日本兵が来た」という声に飛び起きて、家の外に出た所で、私は隣の蔡銀柱おじさんが日本兵に殺されるのを見てしまいました。刀で腹を刺され、おなかから内臓が飛び出して血まみれでした。私は足がすくんでしまって恐ろしくて、家に逃げ戻りました。私を見つけた日本兵は私を追って家に押し入り、私をかばおうとした養父母に切りかかりました。養母の頭の後ろを刀で切りつけ、養父の喉を刀で刺しました。そして瀕死の重傷を負った養父母の前で、二人の日本兵が、恐ろしくて震えている私を強かんしたのです。そのあと、私は養母が飼っていたロバに縛り付けられて、日本軍の河東拠点の窰洞注に連れていかれました。



【河東砲台に40日間監禁されて】

私は河東砲台の窰洞に監禁され、夜は10数人、昼間は3~4人の日本兵に、連日強かんされました。抵抗すると殴られました。陰部は腫れ下腹部は痛み太腿の肉はえぐられ血だらけになりました。その傷は今も残り、このときの辛さは言葉では表せません。家族が田畑を売ってお金を作り、日本軍側に渡してようやく解放されたのは、40日後でした。義兄二人がタンカで運び出してくれ、私は家に戻ることができたのです。



【少女の私が受けた心の傷は深く忘れることはできません】

しかし、私の一家の家財は日本兵に奪い尽くされていた上に、私を救出するために土地を売り、生活は困窮を極めました。瀕死の重傷を負った養父母の傷は癒えることなく、被害から1年後に養母が、1年半後に養父が亡くなりました。
私は家に戻ってくることができても、下腹部は腫れてただれ、化膿していました。体のあちこちが痛み動くこともできず半年間は寝たきりの状態が続きました。養父母も重傷を負っていたので私の面倒をみることはできず、義理の姉が世話をしてくれました。


私は今でも日本兵の夢を見ます。暴行され強かんされたことは忘れようとしても忘れられないのです。少女の私が受けた心の打撃は大きく、精神的な病気にも苦しみました。私は日本兵の異常なまでの性暴力によって、子供を作る能力も失ったのだと思います。
結婚しても子どもができず、神経が不安定で夫を受け付けることができなかったりして、結局離縁されました。再婚後もやはり子どもはできず、30歳過ぎで生理も止まってしまったので、養女をもらいました。再婚した夫は私の被害を知っていましたが、他人に話したことはありません。話すことは恥ずかしく、笑われると思ったからです。


【養父母と私の恨みをはらすために】

いちばん辛かったのは私をかばった養父母が重傷を負わされ亡くなったことです。私のために殺された養父母の恨みをはらし、私の恨みをはらすために私は裁判を起こしました。日本兵が昔犯した罪を認め、賠償してほしい、私の名誉を回復してほしいと思いました。


【被害事実を認めながらなぜ謝らないのか】

 私は3度日本に来て証言しました。3度目に来たのは東京地裁の判決があった時です。裁判所は私たち原告の被害事実をすべて認めました。でも謝罪はありません。被害事実を認めたのに日本政府はなぜ謝らないのですか!この日の集まりや記者会見で、私は本当に悔しくて、最後まで闘う、と言いました。
 体調は良くありません。それでも裁判が終わるまでは死ねない、他の原告の人たちとそう励ましあっています。





    2005年11月18日、最高裁判所で上告棄却となり、敗訴が確定する。裁判では、養父母の恨みを晴らすことも自身の名誉を回復することも出来ず、どれだけ悔しかったか!趙潤梅さんは敗訴の結果を聞いた2006年春以降、記憶の扉を閉ざし、精神的な苦しみの中に引き戻されてしまった。裁判は趙潤梅大娘にとってまさに命をかけた闘いだった。徐々に生きる力をなくし、2008年1月18日、82歳で亡くなった。

              
「中国における日本軍の性暴力の実態を明らかにし賠償請求裁判を支援する会」より提供






【参考および参照した文献や記録】
■『黄土の村の性暴力~大娘たちの戦争は終わらない』
石田米子・内田知行編/創土社/2004年(中国語版は『発生在黄土村庄里的日軍性暴力』
趙金貴訳/社会科学文献出版社/2008年)
■『今こそ、この思いを!―中国山西省性暴力被害者の訴え―』
  中国における日本軍の性暴力の実態を明らかにし、賠償請求裁判を支援する会編/ 2000年5月
■中国での日本軍性暴力パネル展の個人パネル 
                    
【用語】
窰洞(ヤオトン):この地域に見られる崖や斜面に横穴を掘った典型的な住居。冬は暖かく、夏は涼しい。羊馬山山頂に築かれたトーチカ陣地の近くに強かん所として窰洞が作られた。

   




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私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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