中国での性暴力被害
★アジア各国の被害状況 - 2013年07月16日 (火)
日本は明治以来、富国強兵の名の下、軍事力を背景に朝鮮、中国へと勢力を拡大し、満州事変、日中全面戦争、アジア太平洋戦争へと突き進みます。日本軍の侵攻・占領地域の拡大にともなって現地中国の女性たちが受けた性暴力被害はすさまじく、これと慰安所がさまざまな地域に広がっていった過程は重なっています。
・慰安婦制度のもとに開かれた軍慰安所
1932年上海で日本軍は初めて慰安所を作り、1937年日中全面戦争が始まると各地の部隊に慰安所が作られていきます。上海、南京、漢口など大隊以上の司令部が置かれている都市では、どこにも「慰安所」があったことが推定できます。前線には軍の指示で「移動慰安所」のような形があった事が明らかになっています。
1937年12月南京大虐殺は中国市民への無差別殺害とともに、女性への性暴力があまりにも多く南京レイプとも言われています。日本軍の南京侵攻が確実になると、アメリカ人宣教師らが中心となって南京安全区国際委員会が結成され、市民保護のために安全区(難民区)が設定されました。金陵女子文理学院は、難民区のセンターのひとつとして、女性避難民を多く受け入れて、保護にあたりましたが、ここでも日本兵の性暴力はやむことはありませんでした。
責任者だったミニー・ヴォートリン(米人宣教師)の12月24日の日記には以下の記載があります。
「師団の高級軍事顧問と会見することになった、、、避難民1万人から売春婦100名を選別させてもらいたい、、、彼らの考えでは、兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することが出来れば、何の罪もない慎みある女性に淫らな行為を働くことはなくなるだろう。」『南京事件の日々 - ミニー・ヴォートリンの日記』(岡田良之助/伊原陽子訳 大月書店)
南京戦参加元兵士の証言によると1937年12月末ごろから38年初めに、南京城内には約10ヶ所の慰安所、下関には1ケ所、浦口には2~3ヶ所の慰安所があったと言われています。
中国に設置された日本軍慰安所には中国人「慰安婦」の姿もありました。日本軍は現地を熟知し、言葉も通じる在来の業者や対日協力者を使って募集、詐欺、人身売買などで女性を集め、経営も任せた事例はありますが、いずれにしても日本軍の使用する慰安所は日本軍の管理下にありました。(当ブログ『性奴隷制としての軍「慰安婦」制度』を参照) また傀儡警察などを使って「妓女」(公娼制度下の女性)を強制的に「慰安婦」にさせた資料が天津の公的機関に残っています。
1939年日本軍は東南アジア侵略のための基地として海南島を占領しました。海南島の各地には少なくとも64箇所の慰安所が作られ、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、中国大陸、朝鮮、台湾から連行された女性が監禁され性暴力を受けました。
・山西省盂県における性暴力
日本軍は膨大な兵力を投入しても広大な中国で抗日軍の抵抗を受け、「点と線」を抑える事にも困難をきたしていきます。そこで小兵力の分遺隊を各地に配置します。中隊本部からは孤立し、長期間トーチカ陣地(コンクリート製の防御施設を持った陣地)にたてこもって抗日する勢力に日夜対峙しながら過ごす中、軍紀、風紀が乱れ、憲兵、将校の目の届かない分遺隊の多くが無法空間となりました。
現地の隊長は戦意を鼓舞しようと住民・女性への暴力をあえて見逃し、占領下の村では性暴力が常態化していきました。女性たちが数十日も監禁され輪かんを繰り返された実態は、都市慰安所の実態とは異なりますが、都市には慰安所が公然と認められていたことと無関係ではありません。
盂県はまた八路軍(中国共産党軍)による大攻勢と日本軍の報復戦(燼滅<ジンメツ>作戦:人も家も作物も一切なくしてしまい、生活の根拠を奪う作戦)の中に村々が置かれていました。
ある村は八路軍と共に戦う「抗日の村」、ある村は「表の村長」と「裏の村長」をつくり、日本軍の暴行を避けつつ抗日勢力とつながります。ある村は維持会という日本軍に対する協力組織を作り厳しい要求に耐え村を守ろうとします。
河東拠点では、山頂のトーチカ付近に兵舎があり、崖下のヤオトン(崖や斜面に横穴式に作った住居)で拉致してきた女性たちに対し強かんや拷問が繰り返されました。一方村内にもトーチカが築かれ、ここには中国人からなる警備隊(傀儡政権の軍隊)が駐屯しました。この警備隊に「教官」として常駐した日本兵に独占的に専有され、強かんされ続けた女性もいます。また大きな民家から住人を追い出し、維持会を通して周辺の村々に女性の「供出」を割り当てて集め、実態は強かん所と呼べるような家に山上から日本兵が通ってきました。「供出」される女性は、その時の「村」即ち村人たち=成人した男たちの共同体が、村と多くの女性を生き延びさせ災難から救うためにどういう女性なら「犠牲」にできるかと判断し選ばれました。拉致からの解放に際して彼らの家族のほとんどが田畑、家畜を売り身代金を払わされています。
明らかになってはいないが、このような山西省のような事例は中国各地で起こっていたと考えられています。
(★当ブログの証言者たちのページをご覧ください)
(★海南島の証言者はこちらのHPをご覧ください)
参考文献
・日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録 vol4 「慰安婦」戦時性暴力の実態[II] 中国・東南アジア・太平洋編 (緑風出版)
・黄土の村の性暴力 (創土社)
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・慰安婦制度のもとに開かれた軍慰安所
1932年上海で日本軍は初めて慰安所を作り、1937年日中全面戦争が始まると各地の部隊に慰安所が作られていきます。上海、南京、漢口など大隊以上の司令部が置かれている都市では、どこにも「慰安所」があったことが推定できます。前線には軍の指示で「移動慰安所」のような形があった事が明らかになっています。
1937年12月南京大虐殺は中国市民への無差別殺害とともに、女性への性暴力があまりにも多く南京レイプとも言われています。日本軍の南京侵攻が確実になると、アメリカ人宣教師らが中心となって南京安全区国際委員会が結成され、市民保護のために安全区(難民区)が設定されました。金陵女子文理学院は、難民区のセンターのひとつとして、女性避難民を多く受け入れて、保護にあたりましたが、ここでも日本兵の性暴力はやむことはありませんでした。
責任者だったミニー・ヴォートリン(米人宣教師)の12月24日の日記には以下の記載があります。
「師団の高級軍事顧問と会見することになった、、、避難民1万人から売春婦100名を選別させてもらいたい、、、彼らの考えでは、兵士が利用するための正規の認可慰安所を開設することが出来れば、何の罪もない慎みある女性に淫らな行為を働くことはなくなるだろう。」『南京事件の日々 - ミニー・ヴォートリンの日記』(岡田良之助/伊原陽子訳 大月書店)
南京戦参加元兵士の証言によると1937年12月末ごろから38年初めに、南京城内には約10ヶ所の慰安所、下関には1ケ所、浦口には2~3ヶ所の慰安所があったと言われています。
中国に設置された日本軍慰安所には中国人「慰安婦」の姿もありました。日本軍は現地を熟知し、言葉も通じる在来の業者や対日協力者を使って募集、詐欺、人身売買などで女性を集め、経営も任せた事例はありますが、いずれにしても日本軍の使用する慰安所は日本軍の管理下にありました。(当ブログ『性奴隷制としての軍「慰安婦」制度』を参照) また傀儡警察などを使って「妓女」(公娼制度下の女性)を強制的に「慰安婦」にさせた資料が天津の公的機関に残っています。
1939年日本軍は東南アジア侵略のための基地として海南島を占領しました。海南島の各地には少なくとも64箇所の慰安所が作られ、海南島の漢族、黎族、苗族の女性、中国大陸、朝鮮、台湾から連行された女性が監禁され性暴力を受けました。
・山西省盂県における性暴力
日本軍は膨大な兵力を投入しても広大な中国で抗日軍の抵抗を受け、「点と線」を抑える事にも困難をきたしていきます。そこで小兵力の分遺隊を各地に配置します。中隊本部からは孤立し、長期間トーチカ陣地(コンクリート製の防御施設を持った陣地)にたてこもって抗日する勢力に日夜対峙しながら過ごす中、軍紀、風紀が乱れ、憲兵、将校の目の届かない分遺隊の多くが無法空間となりました。
現地の隊長は戦意を鼓舞しようと住民・女性への暴力をあえて見逃し、占領下の村では性暴力が常態化していきました。女性たちが数十日も監禁され輪かんを繰り返された実態は、都市慰安所の実態とは異なりますが、都市には慰安所が公然と認められていたことと無関係ではありません。
盂県はまた八路軍(中国共産党軍)による大攻勢と日本軍の報復戦(燼滅<ジンメツ>作戦:人も家も作物も一切なくしてしまい、生活の根拠を奪う作戦)の中に村々が置かれていました。
ある村は八路軍と共に戦う「抗日の村」、ある村は「表の村長」と「裏の村長」をつくり、日本軍の暴行を避けつつ抗日勢力とつながります。ある村は維持会という日本軍に対する協力組織を作り厳しい要求に耐え村を守ろうとします。
河東拠点では、山頂のトーチカ付近に兵舎があり、崖下のヤオトン(崖や斜面に横穴式に作った住居)で拉致してきた女性たちに対し強かんや拷問が繰り返されました。一方村内にもトーチカが築かれ、ここには中国人からなる警備隊(傀儡政権の軍隊)が駐屯しました。この警備隊に「教官」として常駐した日本兵に独占的に専有され、強かんされ続けた女性もいます。また大きな民家から住人を追い出し、維持会を通して周辺の村々に女性の「供出」を割り当てて集め、実態は強かん所と呼べるような家に山上から日本兵が通ってきました。「供出」される女性は、その時の「村」即ち村人たち=成人した男たちの共同体が、村と多くの女性を生き延びさせ災難から救うためにどういう女性なら「犠牲」にできるかと判断し選ばれました。拉致からの解放に際して彼らの家族のほとんどが田畑、家畜を売り身代金を払わされています。
明らかになってはいないが、このような山西省のような事例は中国各地で起こっていたと考えられています。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(明)


参考文献
・日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録 vol4 「慰安婦」戦時性暴力の実態[II] 中国・東南アジア・太平洋編 (緑風出版)
・黄土の村の性暴力 (創土社)
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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