インドネシア被害者たちの証言

             インドネシア被害者たちの証言
                     木村公一


 わたしは1986年から2002年までの17年間、インドネシアの大学で教育にたずさわりました。インドネシアにおいて日本軍「慰安婦」問題は1992年ごろから意識化されはじめました。ここにいくつかの例をみなさまに分かちあいたいとおもいます。




アミナさんの場合(西ジャワ・スカブミ)

 アミナは13-4歳の時、中学校で学ぶためにスカブミ(西ジャワ)のある知人の所に下宿し始めた。「13-4歳」と書いたのは、当時のインドネシアには戸籍制度というものがなかったので、正確な生年月日を憶えていない人が多いからでもある。年輩の人に、いまあなたは何歳ですかと聞いても、困る人が多い。

 アミナが下宿したスカブミという町の語源の「ブミ」は大地という意味で、「スカ」は喜びという意味でもある。「喜びの大地」あるいは「喜びの里」とでも訳せる美しい地名である。このスカブミにクラモト部隊という大隊が駐屯していた。このクラモト部隊が大変残虐な行為を部隊の名において犯したのだ。

 その被害者のひとりがアミナであった。彼女が下宿していた知人の家とは、父親がオランダ人で母親がインドネシア人の家庭であった。その間に生まれた子どもをインドネシアでは「インドー」と呼ぶ習慣があったが、その家庭には美しい四人の姉妹が人生の思春期を楽しく過ごしていた。そこに、日本軍が侵入してきた。


やがて、オランダ人は適性外国人として全て収容所に連行され、彼女たちの父親は、近くのボゴールというところにある収容所に収容されたが、母親はインドネシア人であったために収容されなかった。ある日、四人姉妹は父親に面会しにボゴール収容所へ赴いた。そのときアミナも姉妹たちに同行した。彼女たちは父親との面会を拒否されたどころか、ボゴール憲兵隊本部に拉致監禁されてしまつた。四人の姉妹たちはアミナがいる憲兵隊事務所の一室から離され、奥の部屋へ連れて行かれた。

またアミナは、彼女たちとの関係を尋問された。尋問されているときに、姉妹たちが助けを叫び求める声が聞こえてきた。アミナは奥の部屋に向かおうとしたが、制止された。その叫びはいまも耳から離れない、何かあると思い起こす、そういう叫びであったという。その後、その姉妹たちと会う機会は全くなかった。このアミナにも悲劇が襲いかかった。


 アミナはミシマという将校を深く尊敬している。その日、憲兵隊本部の一室に置かれたままになっているアミナに、「あなたは私の家に来なさい、そうしないと大変な目に遭うから」と言って彼女を保護したのがミシマであった。ミシマの将校住宅に一時的に匿われた。ミシマは脅えるアミナに「指ひとつ触れることはなかった」という。ミシマの留守に、アミナが帰宅の準備をしているとき、四人の将兵がこの家にやってきた。料理人が「この家には女性はいません」と答えると料理人は殴り倒された。

将兵たちはアミナの寝室に入ってきて、ベッドの下に隠れていたアミナを引きずり出した。ブーツで顔を踏みつけられて抵抗ができない状態に置かれたまま、「憲兵隊本部の一番奥の机に座っていた男」がズボンを下ろしてアミナに襲いかかた。繰り返し将兵たちによって輪姦された。その翌日、深い精神的外傷を負ったアミナに追い討ちをかけるように、下腹部に激痛が走り始め、ついには子宮を切除する手術を受けなければならなくなった。こうして彼女は子を産むことのできない身体になってしまった。その傷は今もアミナの身体に深く刻まれている。


 ミシマは上官の蛮行に激怒しつつも何もできなかった。それが当時の「日本軍」というもう一つの奴隷制度でもあった。そんな彼女を保護し続けたのがミシマであった。日本の敗戦が現実昧を帯びる1945年の初夏、日本に帰還するミシマは彼女の両親と面談し婚約を申し込んだ。ミシマはその夜、始めて彼女と床を共にしたと言う。しかし、敗戦により荒廃した日本からミシマの便りは届かなかった。そして、今に至るまで届いていない。





《その他の証言者たち》


   スハルティさんの場合(中央ジャワ・ジョグジャカルタ)


   ウィンダニンシさんの場合(西ジャワ・スカブミ)


   オリス・カルティさんの場合(西ジャワ・バンドン)


   元海軍兵補ガディマン(海軍海員養成所卒業生)の証言


   スリ スカンティさんの場合(中央ジャワ、プルウォダディ)


    ヌラ(Nurah 南スラウェシ州・ブギス出身)の場合




               「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク



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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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