インドネシア被害者たちの証言
★インドネシアの証言者たち - 2013年05月16日 (木)
インドネシア被害者たちの証言
木村公一
わたしは1986年から2002年までの17年間、インドネシアの大学で教育にたずさわりました。インドネシアにおいて日本軍「慰安婦」問題は1992年ごろから意識化されはじめました。ここにいくつかの例をみなさまに分かちあいたいとおもいます。
アミナさんの場合(西ジャワ・スカブミ)
アミナは13-4歳の時、中学校で学ぶためにスカブミ(西ジャワ)のある知人の所に下宿し始めた。「13-4歳」と書いたのは、当時のインドネシアには戸籍制度というものがなかったので、正確な生年月日を憶えていない人が多いからでもある。年輩の人に、いまあなたは何歳ですかと聞いても、困る人が多い。
アミナが下宿したスカブミという町の語源の「ブミ」は大地という意味で、「スカ」は喜びという意味でもある。「喜びの大地」あるいは「喜びの里」とでも訳せる美しい地名である。このスカブミにクラモト部隊という大隊が駐屯していた。このクラモト部隊が大変残虐な行為を部隊の名において犯したのだ。
その被害者のひとりがアミナであった。彼女が下宿していた知人の家とは、父親がオランダ人で母親がインドネシア人の家庭であった。その間に生まれた子どもをインドネシアでは「インドー」と呼ぶ習慣があったが、その家庭には美しい四人の姉妹が人生の思春期を楽しく過ごしていた。そこに、日本軍が侵入してきた。
やがて、オランダ人は適性外国人として全て収容所に連行され、彼女たちの父親は、近くのボゴールというところにある収容所に収容されたが、母親はインドネシア人であったために収容されなかった。ある日、四人姉妹は父親に面会しにボゴール収容所へ赴いた。そのときアミナも姉妹たちに同行した。彼女たちは父親との面会を拒否されたどころか、ボゴール憲兵隊本部に拉致監禁されてしまつた。四人の姉妹たちはアミナがいる憲兵隊事務所の一室から離され、奥の部屋へ連れて行かれた。
またアミナは、彼女たちとの関係を尋問された。尋問されているときに、姉妹たちが助けを叫び求める声が聞こえてきた。アミナは奥の部屋に向かおうとしたが、制止された。その叫びはいまも耳から離れない、何かあると思い起こす、そういう叫びであったという。その後、その姉妹たちと会う機会は全くなかった。このアミナにも悲劇が襲いかかった。
アミナはミシマという将校を深く尊敬している。その日、憲兵隊本部の一室に置かれたままになっているアミナに、「あなたは私の家に来なさい、そうしないと大変な目に遭うから」と言って彼女を保護したのがミシマであった。ミシマの将校住宅に一時的に匿われた。ミシマは脅えるアミナに「指ひとつ触れることはなかった」という。ミシマの留守に、アミナが帰宅の準備をしているとき、四人の将兵がこの家にやってきた。料理人が「この家には女性はいません」と答えると料理人は殴り倒された。
将兵たちはアミナの寝室に入ってきて、ベッドの下に隠れていたアミナを引きずり出した。ブーツで顔を踏みつけられて抵抗ができない状態に置かれたまま、「憲兵隊本部の一番奥の机に座っていた男」がズボンを下ろしてアミナに襲いかかた。繰り返し将兵たちによって輪姦された。その翌日、深い精神的外傷を負ったアミナに追い討ちをかけるように、下腹部に激痛が走り始め、ついには子宮を切除する手術を受けなければならなくなった。こうして彼女は子を産むことのできない身体になってしまった。その傷は今もアミナの身体に深く刻まれている。
ミシマは上官の蛮行に激怒しつつも何もできなかった。それが当時の「日本軍」というもう一つの奴隷制度でもあった。そんな彼女を保護し続けたのがミシマであった。日本の敗戦が現実昧を帯びる1945年の初夏、日本に帰還するミシマは彼女の両親と面談し婚約を申し込んだ。ミシマはその夜、始めて彼女と床を共にしたと言う。しかし、敗戦により荒廃した日本からミシマの便りは届かなかった。そして、今に至るまで届いていない。
《その他の証言者たち》
スハルティさんの場合(中央ジャワ・ジョグジャカルタ)
ウィンダニンシさんの場合(西ジャワ・スカブミ)
オリス・カルティさんの場合(西ジャワ・バンドン)
元海軍兵補ガディマン(海軍海員養成所卒業生)の証言
スリ スカンティさんの場合(中央ジャワ、プルウォダディ)
ヌラ(Nurah 南スラウェシ州・ブギス出身)の場合
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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木村公一
わたしは1986年から2002年までの17年間、インドネシアの大学で教育にたずさわりました。インドネシアにおいて日本軍「慰安婦」問題は1992年ごろから意識化されはじめました。ここにいくつかの例をみなさまに分かちあいたいとおもいます。
アミナさんの場合(西ジャワ・スカブミ)
アミナは13-4歳の時、中学校で学ぶためにスカブミ(西ジャワ)のある知人の所に下宿し始めた。「13-4歳」と書いたのは、当時のインドネシアには戸籍制度というものがなかったので、正確な生年月日を憶えていない人が多いからでもある。年輩の人に、いまあなたは何歳ですかと聞いても、困る人が多い。
アミナが下宿したスカブミという町の語源の「ブミ」は大地という意味で、「スカ」は喜びという意味でもある。「喜びの大地」あるいは「喜びの里」とでも訳せる美しい地名である。このスカブミにクラモト部隊という大隊が駐屯していた。このクラモト部隊が大変残虐な行為を部隊の名において犯したのだ。
その被害者のひとりがアミナであった。彼女が下宿していた知人の家とは、父親がオランダ人で母親がインドネシア人の家庭であった。その間に生まれた子どもをインドネシアでは「インドー」と呼ぶ習慣があったが、その家庭には美しい四人の姉妹が人生の思春期を楽しく過ごしていた。そこに、日本軍が侵入してきた。
やがて、オランダ人は適性外国人として全て収容所に連行され、彼女たちの父親は、近くのボゴールというところにある収容所に収容されたが、母親はインドネシア人であったために収容されなかった。ある日、四人姉妹は父親に面会しにボゴール収容所へ赴いた。そのときアミナも姉妹たちに同行した。彼女たちは父親との面会を拒否されたどころか、ボゴール憲兵隊本部に拉致監禁されてしまつた。四人の姉妹たちはアミナがいる憲兵隊事務所の一室から離され、奥の部屋へ連れて行かれた。
またアミナは、彼女たちとの関係を尋問された。尋問されているときに、姉妹たちが助けを叫び求める声が聞こえてきた。アミナは奥の部屋に向かおうとしたが、制止された。その叫びはいまも耳から離れない、何かあると思い起こす、そういう叫びであったという。その後、その姉妹たちと会う機会は全くなかった。このアミナにも悲劇が襲いかかった。
アミナはミシマという将校を深く尊敬している。その日、憲兵隊本部の一室に置かれたままになっているアミナに、「あなたは私の家に来なさい、そうしないと大変な目に遭うから」と言って彼女を保護したのがミシマであった。ミシマの将校住宅に一時的に匿われた。ミシマは脅えるアミナに「指ひとつ触れることはなかった」という。ミシマの留守に、アミナが帰宅の準備をしているとき、四人の将兵がこの家にやってきた。料理人が「この家には女性はいません」と答えると料理人は殴り倒された。
将兵たちはアミナの寝室に入ってきて、ベッドの下に隠れていたアミナを引きずり出した。ブーツで顔を踏みつけられて抵抗ができない状態に置かれたまま、「憲兵隊本部の一番奥の机に座っていた男」がズボンを下ろしてアミナに襲いかかた。繰り返し将兵たちによって輪姦された。その翌日、深い精神的外傷を負ったアミナに追い討ちをかけるように、下腹部に激痛が走り始め、ついには子宮を切除する手術を受けなければならなくなった。こうして彼女は子を産むことのできない身体になってしまった。その傷は今もアミナの身体に深く刻まれている。
ミシマは上官の蛮行に激怒しつつも何もできなかった。それが当時の「日本軍」というもう一つの奴隷制度でもあった。そんな彼女を保護し続けたのがミシマであった。日本の敗戦が現実昧を帯びる1945年の初夏、日本に帰還するミシマは彼女の両親と面談し婚約を申し込んだ。ミシマはその夜、始めて彼女と床を共にしたと言う。しかし、敗戦により荒廃した日本からミシマの便りは届かなかった。そして、今に至るまで届いていない。
《その他の証言者たち》






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