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朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言

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出典はこちら→関釜裁判 証言者たち 



朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言

(2006年2月19日81歳の生涯を閉じられました。心よりご冥福をお祈り
します)


1 生い立ち
 私の名前は朴頭理(パク・トゥリ)といいます。生年月日ば新暦と陰暦がありますが、陰暦1924年9月2日生まれです。
ソウルにある仏教団体のナヌメチップ(わかちあいの家)で細々と生活をしております。ナヌメチップの中で家事や掃除の手伝いなどをしており、ときどき日本大使館へのデモにも行っています。文字が読めないので住所が何番地かというのは分かりませんが、住所を書いたメモは私がいつも持ち歩いているカバンにいれています。ナヌメチップヘ行く道は知っています。

2 だまされて台湾へ
 私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。
父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺き屋根の家に住んでいました。貧しかったので学校に行くこともできず、今でも字を読むことも書くこともできません。
 私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
 私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えでませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
 初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。

 日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。
娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。
 何人かの娘たちと一緒で、船に乗るまではどんな人たちと一緒だったのか覚えていたのですが、船に乗った途端に船酔いがひどくて、今はよく覚えていません。
船に乗っているあいだもずっど船酔いがひどく、船がどこへ行ったのかどこに着いたのかも分かりませんでした。
 舶から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。

3 慰安所へ
 病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて含湾に運れて来られたということが分かりました。
 病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。
 話が違うと思っても、言葉も通じず、カもなかったので、いくら抵抗してもどうしようもありませんでした。
 「慰安所」の住所は当時は覚えていましたが、今は覚えていません。でも周囲に山があったり田や畑があり景色は今でも覚えているので、私をその場所へ連れていってもらえば分かると思います。
 「慰安所」はコの字型をした建物で、両方の棟に娘たち(「慰安婦」)たちがいました。
コの字型の突きあたりは廊下になっていて、庭には薪を置いたり水を置いたりしていました。入り口のほうには食堂があり、そのすぐそばに主人の住んでいる家がありました。窓には鉄格子はなかったのですが、塀のまわりは鉄格子で囲まれていました。その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。
 私はその「慰安所」で日本名で「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来られて、客をとらされました。初めて男の人と接したのは「慰安所」でした。客として来る日本の軍人からもお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。

4 つらい「慰安所」での生活
 「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。
 具合が悪くなったときなどは、病院に連れていってもらえることもありました。
週に一回は注射を打たれました。
 位の低い軍人からは何ももらえなかったのですが、位の高い軍人のときは、いくらかの小遣いをもらったり、きれいにするためのクリームなどをもらったりしました。
 私の客は多かったので、病気にもなりました。
 食事は朝はなく昼と夜の二食だけで、いつもひもじい思いをしていました。
 台湾にいた6年問のあいだに、主人はどんどん替わっていきましたが、新しい主人になってもお金はまったくもらえませんでした。休みは月に一度で、もし外出するにしても必ず「何時何分までに戻ります」という許可を取ってからでないと外に出ることはできず、それを守らないとひどい目にあわされました。休みの日は、ほとんど一日中寝ていたり、洗濯をしたりして過ごしました。

 ある日外出したときに、たまたまバナナ畑があり、あまりにお腹が空いていたのでバナナを取って食べたら、畑の主人に見つかってしまい、畑の主人から半殺しの目にあわされ、管理人からも半殺しの目にあわされたことがありました。
 私が人に頼んで台湾から故郷に手紙を出していたので、住所を知っていた弟からある日手紙が居きました。手紙の中に「ノートや鉛筆を買ってほしい」ど書いてありました。弟は私が工場で働いてお金を儲けていると思っていたのでしょう。でも私には買えるお金もなかったので、そのことを嘆き悲しんでいると、ほかの「慰安婦」たちがそれを見かねて、一人いくらかずつお金を集めてくれて、そのお金で弟にノートと鉛筆を買って送りました。弟は事情を知らないので、「またノートと鉛筆を送ってくれ」と手紙がきました。

 最初に連れていかれた「慰安所」から2、3回場所を変わりましたが、ただ言われる通りについていっただけなので、どこからどこに行ったのかは分かりません。軍隊が移動するたびに移動していました。
 私が一番嫌だったことは客をとることで、「客をとるのが嫌だ」と言おうものなら半殺しの目にあわされました。

5 故郷に帰る
 ある日、「慰安所」から連れ出されて船に乗せられたので、その船の中で「どこへ行くのか?」と尋ねると、「朝鮮が解放されたから朝鮮に帰るんだよ」と言われました。その時に朝鮮が解放されたことを知りました。
 同じ船に乗っていたソウル出身のおじいさんが教えてくれて、彼にはいろいろと親切にしてもらいました。今から思えば彼の住所でも聞いておけばよかったと思います。
 ようやく故郷に帰ることができ、故郷では父も母も健在で、父と母には「日本の工場で働いていたけれど、お金は一銭ももらえなかった」と嘘をつきました。そのことに対して父も母も別に何も言いませんでした。

 故郷には帰ることはできましたが、6年の「慰安婦」生活のおかげで私の体は満足な体ではありませんでした。
 その後、結婚しましたが、夫には「慰安婦」をしていたことは言えず「日本の工場で働いでいた」と言って隠していました。結婚して6年問は子供ができませんでしたが、そのあと女の子が3人と男の子1人を産みました。
 夫も姑も亡くなった後ば、行商などをやって生活していました。娘2人と息子を亡くし、戸籍上は私1人だけです。
 私の人生ばこれっぽっちもいいことはありませんでした。今は体の調子が悪いので病院通いが多いです。

6 日本政府の責任で補償を!
 今の状態はまるで生き地獄です。生きていく事は一番辛いです。若いころにひどい目に遺ったぱかりに、今、後遺症がでて耳のほうからも血がでたり、ウミがでたりしますけども、年を取って手術は不可能だと言うし、足もどうか手術で直しでくれと言っても、年だから無理だと言います。もう、本当に生きながらえていること、恥ずかしいと言っていいのか、全く地獄そのものです。私はだまされて連れていかれ「慰安婦」を強制されたのです。
 今の日本人は立派な紳士だけれど、昔の日本人は卑怯者で、悪者でした。それから、これだけ6年間も人の体をむしばんでおいて、国家賠償は一切なし。話があれば、民間から募金してうんぬんとかいう話をやっている。我々は申請してから3年問、日本政府は我々が死ぬのを待っているのではないかと、誠意も何もないんじやないかと。
 私は若いころに苦労し、その後も苦労したことは、日本全国をくれてもいやだ、自分を戻してくれというのが本当だ、それが私の気持ちです。私は何億の金をくれとか、何千万の金をくれとかは申しません。私が後何年生きておれるでしょう。いくらかでも誠意を見せて補償をしていただければ、たまにはおいしいものを食って、たまにはいい生活をしたり、たまには友達と食事をしたり、そういう生活を何年問か続けて死ねぱ何十年間かの苦労もわずかでもほぐれるんではなかろうかと思います。
 3年間引っ張って引っ張って、我々が亡くなるのを待っているような、そういう不誠意なやり方、私はもし死んでも、鬼となって日本政府に補償を願いたいと思います。
 裁判官は私がこれだけ話しているのに、黙って聞いているだけで、どう思っているのか、何か言うことはないのか。
(裁判官質問)「今回このような裁判を起こしたのは、どのような気持ちからですか」
 我々をひどい目にあわしたのだから、補償をしてくれということでやっています。
高齢者ですから、補償してくださるなら、生きているうちにしてください、ということでやりました。




                   「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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