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李順徳(イ・スントク)さんの証言

はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)





出典はこちら→関釜裁判 証言者たち 



李順徳(イ・スントク)さんの証言


1 生いたち
 私は1918年陰暦10月20日、全羅北道裡里郡の慕縣(モヒョン)どいう村の農家で生まれました。
父母と私と三歳下の弟の4人家族で、家は小作地も無く、他の農家の賃仕事で生計をたて、大変貧しい暮らしでした。部屋が一つしかない藁葺きの家に一家で住み、私も弟も一度も学校に行ったことがなく、私は家事をまかされていました。

2 甘言にのせられて
 私が上海に連れて行かれたのば、1937年の春、数えで19歳(満18歳)のときのことです。叔母の話では私が生まれた年は1919年だとのことですので、それが本当なら満17歳の時に連れて行かれたことになります。
 その日私は夕食の準備のため、村の畑の畦道で蓬を描んでいました。当時の朝鮮の田舎では食べるものがない貧しい農民はよく蓬を描んで麦飯を少し混ぜて食べたのです。そこに3、40歳位の見知らぬ朝鮮人の男が来て、「そんな事をしているよりも、自分についてくれば、履物もやるし着物もやる。腹一杯食べれるところに連れて行ってやる」と誘いました。
 私はそのとき履物もなく草鞋をはいていましたし、空腹を癒すことに精一杯だったので、ついその男の言葉に乗せられ、何も考えずについて行くことにしました。私は父と母に挨拶してから行きたいと言いましたが、男は時間がないと言って私の手をとって引っ張りました。当時男から手を取られるというのは大変なことなので、私は驚き、恐ろしくて、恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれてしまいました。

3 上海へ
 私は、裡里邑の旅館まで一時問位早足で歩いて連れて行かれました。旅館には私と同じように連れて来られた人が14、5人いて、一緒に夕食を食べました。皆、私と同じような農家の娘で、誰もどこに何のために連れて行かれるのか分からず、泣いていました。その夜はみんなで一部屋で寝ました。私ば一晩中泣いて一睡もできませんでしたが、部屋の外から鍵がかけられていて逃げることも出来ませんでした。
 翌日になると私を連れてきた朝鮮人の男の姿は見えず、代わりに日本人の男が3人いました。
男たちはカーキ色の服を着てゲートルを巻き、腹にサーベルをぷらさげていました。
 私たちは朝食後その日本人達に連れられて旅館を出て30分ほど歩いて裡里駅に着き、どこに行くかも告げられないまま汽車に乗せられました。汽車の中で2回寝て、上海の駅に着きました。上海に着いて食事をした後、幌のないトラックの荷台に乗せられました。日本人の1人は運転手の横に座り、残りの2人は私たちと一緒に荷台に乗りました。運転手も日本人で他の3人と同じ服装をしていました。

4 慰安婦小屋
 約3時間位トラックに乗って日本陸軍の駐屯地に連れて行かれました。そこには大きな軍用テントがあり兵隊たちが住んでいました。軍用テントの近くに、むしろの壁に萩を編んで作った屋根の小さな小屋が点々とたっていて、私たちはひとりずつばらばらにそこに入れられました。小屋は畳2~3枚位の広さで、床は枯れ葉の上に竹で編んだ敷物を敷いて、その上に国防色の毛布が掛けてあり、雨が降ると雨水が沢山漏れてきました。
 私は軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の3日間は何もなく、その小屋で休んでいました。その間に血液検査と「六○六号」と言われる注射をされました。注射されたと朝鮮人の軍人が一緒に入ってきたので、何の注射かと間いたら、妊娠をしないための注射だと言われましたが、その時の私にはそれが何を意味するかも理解出来ませんでした。

5 慰安婦となる
 4日目にミヤザキという名の年配の将校が入ってきて、私を「カネ子」と呼び、一緒に寝ようと言いました。嫌だというと「大丈夫、何でもないから怖がるな」と言って抱きついてきました。その将校は私を無理やり押し倒して犯し、それから3日間毎晩やってきました。彼の軍服には星が三個ついていて、そこにいた軍人の内で一番位の高い人だったと思います。ミヤザキは土曜日には自分がくるので他の兵隊の相手はするなと言いました。

6 六○六号の注射
 最初の三日はミヤザキの相手だけをさせられましたが、その次の日にはたくさんの兵隊が私の小屋の前に行列をつくり、次から次へと私を犯しました。抵抗しようとしましたが、起き上がると殴られ、蹴られるので、横になって男たちにされるままになっていました。それから毎日たくさんの兵隊の相手をさせられるようになりました。朝の9時ころから、平日には8~9人、日曜日には15、6人の兵隊の相手をしました。
 私は連れて来られたときにはまだ生理がなく、約一年後に始まりましたが、生理のときにも部屋の中においたバケツの水で洗いながら男の相手をさせられました。
軍人のなかにはサックを使う人も使わない人もいました。生理の時だけサックをする人もいました。私は最初サックというものがよくわからなかったので、兵隊が置いて帰ったものを風船だと思って膨らましたことがあります。 「六○六号」の注射は二週間に一回打たれました。いつも星二つの軍服の同じ人が注射しました。一緒に朝鮮人の軍人が来ましたが、その人の襟章は星ではなく丸が三個ついていました。
 「六○六号」の注射以外に検診などはありませんでした。このような生活の中で、お金や軍票をもらったことは一度もありません。チップのようなものも、もらったことがありません。

7 悲惨な監禁生活
 風呂はなく、部屋の中でバケツに扱んだ水で体を洗いました。食事は小屋の前に軍人がもってきて鐘を鳴らすので、自分で小屋の中に持ち込んで食べました。食事時に男の相手をさせられて、食事ができないこともよくありました。最初は日本語が分からないといって兵隊たちによく殴られましたが、一年後には話せるようになりました。監督が厳しくて、他の女性と話をすることもありませんでした。
小屋の前に兵隊がいつも見張っているので逃げることもできませんでした。

8 たった一つの思い出
 こんな生活のなかで、ミヤザキは私に暴カを振るうこともなく、親切にしてくれました。
彼は私がチマ(スカート)で顔をふいているのをみて、石鹸とタオルー枚を持ってきてくれました。
 一度だけミヤザキが飛行機に乗せてくれたことがあります。小さなトンボ飛行機で操縦士の外は私とミヤザキの二人だけが乗りました。私は恐ろしくてミヤザキにしがみついていました。私のたった一つの楽しい思い出です。私が上海に来てから一年程してミヤザキが日本に帰ることになり、日本について来て自分の妾にならないかと言いました。しかし、私は故郷に帰りたいので嫌だと言って断りました。

9 軍靴で蹴られる
 解放の1~2ケ月前、ある将校が自分と約束しているのに何故他の男と寝たかと私を責め立て、軍靴で私の腹を力任せに蹴り上げ、刀で背中を斬りつけました。私は卒倒し、気づいてみると見張りの軍人が人を呼びにいって、小屋のなかで治療してくれましたが、一週間は起きることもできませんでした。
 故郷に帰ってからも傷の治療をしましたが、腹と背中の傷は今もはっきりと残っていて、雨の日には背中は今でも痛み、動きが不自由です。

10 故郷に帰る
 結局私は、1945年の解放の日まで慰安婦をさせられました。いつもの小屋にいると、小屋の裏の道に沢山の朝鮮人が来て、歓声を上げ「解放だ。掃ろう。」と叫んでいるのが聞こえました。日本の兵隊たちはいつの問にかいなくなっていました。
私は最初は解放とは何の意味かわかりませんでしたが、説明を聞いてわかりました。そこで、その朝鮮人達について帰ることにしました。屋根のない貨車に乗り雨に濡れながら、何日もかかって帰ってきました。

11 再婚を重ねて
 家に帰ると、両親はすでに亡くなっていて、弟だけが家にいました。両親は私のことを心配し、一生懸捜し回り、絶望して死んでしまったそうです。弟は私にどこにいたかと聞きましたが、私は本当のことは恥ずかしくて言えず、金持の家で飯炊きをしていたと話しました。
 その後、農作業の雑用などの賃仕事をして暮らしましたが、一年後に金堤(キムジェ)に住んでいる17歳年上の男を紹介され、その男の後妻になりました。そこで8年暮らしましたが、夫は死亡し、夫の子供や嫁に出ていくように言われたので、金堤を出ました。
 その後今の夫を紹介され、再婚して光州に来ました。私が慰安婦をさせられていたことは前の夫にも今の夫にも話しませんでした。私が裁判を起こしたので、今の夫は人からその話を聞くこともあると思いますが、教育も受けていないし、もう年をとっているのでよく理解できないようです。長い間慰安婦をさせられていたためか、私には子供がとうとう出来ませんでした。再婚後婦人科の診療を受けたとき、医者から何か無理をしたことがないかと尋ねられたことがあります。

12 貧しい生活
 今は生活保護を受け、政府から月に15万ウォン(2万円弱)と米の現物支給を受けて夫とふたりで暮らしています。支給される米は一月分が二週間位でなくなってしまい、苦しい生活です。日本政府からは何の補償も受けたことがありませんが、昨年の夏韓国の民間募金から500万ウォン(約62万円)を受けとり、やっと一息つきました。いつも頭が痛く、目も良く見えず、足がふらつきます。

13 死ぬ前に補債を!
 私は、日本が補償するなら、私が死ぬ前にしてほしいと恩います。私が生きているうちなら受け取った金で着物も買えるし、病院にも行けるし、薬を買うこともできます。私が死んでから補償していったい誰が金を使うのですか。日本政府は補償の代わりに女性自立センターというのをつくると言っているそうですが、とんでもないことです。個人補償をしないのなら、このまま総理大臣のところに行ってその前で自殺してやろうとも思っています。
(1994年8月18日作成。裁判所に提出)



                   「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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プロフィール

「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク

Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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