河順女(ハ・スンニョ)さんの証言

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河順女(ハ・スンニョ)さんの証言

 (河順女(ハ・スンニョ)さんは2000年5月5日に亡くなられました。
心よりご冥福をお祈りします。)


1 生い立ち
 私は1918年2月2日、全羅南道木浦市で父河東淑、母南東郷との間に長女として生まれました。
父は全羅南道霊光郡で小作農をしていましたが、私が生まれた当時、母と出稼ぎで木浦に来ていたのです。私は弟2人、妹1人の家族の中で育ちました。家は貧しく、部屋が二つの藁葺きの家に住んでいました。
 私は霊光郡の小学校に行きましたが、勉強が嫌いで、勉強をした記憶がほとんどありません。
しかし、どうにか小学校だけは卒業し、父が心配して親戚の家にあずけ、光州市の女学校に入学させました。ところが私は1ヶ月も学校に行かず途中退学し、そのまま光州の呉服屋の社長の家に住み込んで家政婦として生活することにしました。その家で私は信頼されて数年働きました。

2 「金儲けができる仕事」とさそわれる
 私が従軍慰安婦として連行されたのは、19歳だった1937年の春だったと思います。買い物に行こうと家を出たとき、洋服を着た日本人と韓式の服を着た朝鮮人の青年が私に話しかけ、「金儲けが出来る仕事があるからついてこないか」と言いました。私は当時としては婚期に遅れた年になり、金儲けをしたいと思っていた矢先だったので、どんな仕事をするか分からないまま、ソウルにでも行くのだろうと思って、彼らについていくことにしました。そのまま家の人にも何の連絡もせずについていくと、私の他に3人の娘がいました。1人は私と同じ歳で、あとの2人は私より年下でした。

3 プサンから大阪へ、そして上海に
 私たちは汽車でプサンに行き、日本人の家らしいところにつれていかれて一泊し、プサンの埠頭から貨客船に乗って大阪の港につきました。そこが大阪だと分かったのは、日本人の男が、「ここは大阪だ」と言ったからです。
 そこでいったん船を降りて下宿屋のようなところへ一泊しました。私以外の娘たちはそこからどこかへ連れていかれましたが、私だけは別の日本人に連れられてなぜか再び船でプサンに戻りました。そしてプサンから私と同じような朝鮮の娘たち7~8人と一緒に船に乗せられ、天津につき、天津から南京を通って汽車で上海までつれていかれました。上海で、最初に光州で彼が慰安所の主人だということが分かりました。彼がここは上海だと言ったし、前に来ていた女性たちがここは上海だと言ったので、そこが上海だと分かったのです。

4 長屋の慰安所
 上海では、アメリカ人かフランス人の租界区の近くにある長屋に入れられました。
その長屋は人が二人やっと寝ることが出来る程度の窓のない30くらいの小さな部屋に区切られており、私はその一つを割り当てられました。
 部屋は板張りの床で毛布を敷き、冬は湯たんぽで暖をとっていました。私は長屋に入れられたときは、炊事・洗濯をさせられるものとばかり思っていました。

5 慰安婦の生活
 ところが翌日、カーキ色をした陸軍の服を着た日本人の男が部屋の中に入ってきて、私を殴って洋服を脱がせたため、私は悲鳴を上げ逃げようとしましたが、戸には鍵がかかっていました。
 その日からたくさんの軍人たちが私の部屋に来ました。私は客を取る以外は仕事をするなと言われ、「マサコ」という呼び名で軍人の相手をさせられました。
 この慰安所には日本人の女が2人、中国人の女が2人、朝鮮人の女が4人いましたが、朝鮮の馬山から来た娘は「オトマル」という名で呼ばれていました。
 主人の妻が軍人からお金をもらっていましたが、私は一度もお金をもらったことがありません。
 上海に来てから3ヶ月たったとき、父母に手紙を書いたことが一度だけあります。住所も何も書かず、ただ金儲けして帰るから安心してほしいとだけ書きました。自分が苦労するのは騙された自分の罪だと思っていましたが、父母だけは安心させたかったのです。
 主人は帰るときに金をやると言っていましたが、私はそんな言葉は信じませんでした。
ただ早く国に帰ることだけを願っていました。毎日朝の9時から夜の2時くらいまで、軍人の相手をさせられました。休日というのはなく、ただ生理のときだけ軍人の相手をせずにすみました。1ヶ月に1回くらい病院で軍医の検診を受け、注射をされました。

6 陸軍部隊慰安所
 長屋には「陸軍部隊慰安所」と書いた看板が掲げてあり、食事は台所の横にある食堂でしました。
長屋の一番はしに、主人の部屋がありました。主人は日本人で、いつも下は軍服のズボンでしたが、上はシャツだけのことが多く、妻のことを「タカちゃん」と呼んでいましたが、彼らのはっきりした名前は思い出せません。主人は福岡出身で妻は長崎出身だと言っていました。
 慰安所の実際の所有者は主人の妻の兄で、月に1,2回慰安所に来ていました。呉淞路(ウースンルー)にある慰安所の人が私たちを引き抜きに来ましたが、主人が断りました。

7 慰安所を抜け出す
 私は軍人の相手をしたくないので、炊事・洗濯などの家事をしていた「チョウさん」という中国人夫婦の手伝いに時々抜け出していました。私は炊事・洗濯だけの仕事をさせてくれるよう主人に頼みましたが、その度に激しく殴られ、生傷が絶えませんでした。
 ある日、私はどうしても耐えられず、慰安所から逃げ出して化粧品店をしている西洋人のおばあさんの家にいたところ、主人に見つかって連れ戻されました。

8 激しい仕打ち
 主人は激怒して、炊事場で「殺してやる」と包丁を持ち出しました。チョウさんが止めてくれましたが、いつも女性たちを殴るために主人が帳場においている長さ50センチくらいの樫の棍棒で体中を殴られ、最後に頭を殴られ大出血しました。
 その後のことは記憶がありませんが、後で聞いたところによると、チョウさんが「血が出て死にそうだ」と言って、西洋人のおばあさんを呼んできて、彼女が私を介抱し、傷の手当をしてくれたそうです。
 3日くらい後に、慰安所に来ていた東京出身の衛生兵らしい優しい日本人がやってきて、私を陸軍病院に連れていってくれました。そこで頭の傷を7針縫いました。その後1月くらいは顔が腫れ上がり、軍人の相手はせずに炊事場で働いていました。チョウさんの話では、その衛生兵は主人から慰安婦が働かないから叩いたのになぜ親切にするのか、もう慰安所に来るなと言われたそうです。

9 解放から帰国へ
 ある日病院に行って帰ってくると主人がいなくなっていました。そして翌日病院に行くと日本人の医者は、私たちは日本に帰るから後は国に帰って治療しなさいと言いました。慰安所に戻るとチョウさんが日本が負けて戦争が終わったと私に教えてくれました。そして軍人たちも私以外の女性たちもいつの間にかいなくなり、私だけが残されてしまいました。そのうち、中国人が建物を壊したり放火しているのを見て、私も日本軍の関係者として危害を加えられるのではないかと怖くなりました。
 チョウさんの奥さんが家で3日間ほどかくまってくれた後、上海の埠頭に連れていってくれました。私は埠頭で3日間乞食のように野宿して帰国船を待ちました。ようやく帰国船に乗り5日目にプサンに帰り着き、船の船長にたのんで麗水まで連れていってもらい、列車に乗って故郷に帰りました。

10 家政婦として生きる
 故郷では母は生きていましたが、父は亡くなっていました。父は解放の頃に「火病」で死んだとのことでした。
怒りや悲しみのために死んでしまうことを韓国では「火病」というのです。
 私はやっと故郷に帰ってきましたが、当時は左翼と右翼の対立が厳しい時代で、外国帰りが苛められることが多く、
私は故郷を出て一人で光州に行き、もと働いていた家を訪ねました。しかし、すでにそこの主人はいませんでした。そこで、母の実家のある全羅南道のチャンフンにいって農業をして暮らしました。
 しかし1950年に朝鮮戦争が始まると、そこにもいられなくなって、プサンに来ていろいろな家で1年や数ヶ月づつ家政婦をして暮らすようになりました。
 10年前に妹の息子の金鐘浩が自分の家に来るように行って、部屋を空けてくれました。私は家政婦をして働いていた時は、甥にいくらかのお金を入れて来ましたが、歳をとって、家政婦の仕事も出来なくなりました。

11 慰安婦の申告
 私は国に帰ってきてから従軍慰安婦をさせられていたことを誰にも言ったことがありません。
母には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと言いました。甥が従軍慰安婦に関するテレビのニュースを見て、私が従軍慰安婦をさせられていたのではないかと気付きプサンの挺身隊対策協議会に申告したのがきっかけで、この裁判を起こすことになったのです。

12 日本政府への怒り
 家政婦をやめてから、私は韓国政府から生活保護として1ヶ月米5升と麦5合、燃料費二万ウォンの支給を受けて暮らしてきました。昨年から挺身隊ハルモニ生活補助金として月一五万ウォンが韓国政府から支給されるようになりましたが、今も三畳一間の部屋で家賃が八万ウォンで苦しい生活です。雨が降ると頭が痛くなり、時々、頭が空白になります。
 日本政府は、私たちのことに日本政府は責任はないとか、私たちは公娼だとか言っているそうですが、私はこれを聞いて腹が煮えくり返る思いです。



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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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