宋 神道(ソン・シンド)さんの証言
★韓国の証言者たち - 2013年05月16日 (木)
はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)
2002年7月23日内閣委員会で
「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の審査がありました。
被害者に参考人として委員会で実際に体験したことを直接話して欲しかったわけ
ですがかなわず、岡崎トミ子さんがその思いを代読されました。
それは在日の被害者で唯一裁判を闘い、当時最高裁に上告中の宋神道(ソン・シンド)さんの陳述
で、事前に心情を語っていただき、裁判を支援する会の方が聞き書きをしたもの
です。宋(ソン)さんは宮城県から傍聴に来られていました。(以下の証言はその議事録
です)
【以下証言】
私は今年満八十歳になります。だまされて慰安所に連れていかれたのは十六歳のときです。 まだ何も分からない、ままごと遊びをしているような子供でした。
何も分からないまま、性病の検査台に乗せられたときには、恥ずかしいやら、恐ろしいやら、痛いやら。検査器は入らないし、あんまり暴れたので、軍医もお尻をぴしゃりとはたいて下ろしてくれました。
泣いて、泣いて、そっち逃げたり、こっち逃げたり。隠れていたら捕まって、髪結び付けて殴ったり、足でけったり。暗い部屋に縛り付けて、飯も食べさせない。そうして死ぬ前に保護して、今日から兵隊さんの言うことを黙って聞くんだぞと、こう言います。そう言われても、その時間になると、やっぱり嫌だから、また同じことの繰り返し。涙ばかり流して。
逃げようとしても帰る道も分かりません。最初は泣いてばかりいましたが、軍人の言うとおりにしなければ帳場に、担当している者に殴られる。軍人には刀で脅される。命が惜しくて、死ぬのだけは嫌でした。だから軍人の言うことを聞ぐしかねがったんです。日本語も必死に覚えて、はたかれないように、殺されないように、一生懸命やったんです。
明日は死ぬという覚悟で戦やっている気の荒い軍人ばかり相手にしてたから、私の気性もすっかり荒くなりました。毎日、毎日びんた取られて、ほっぺたにたこが寄って、今じゃ何ぼたたかれても痛くありません。鼓膜が破れて、耳も片一方しか聞こえません。慰安所で彫られた入れ墨が恥ずかしくて、風呂にも行けません。それでも、生きてこられただけ何ぼかましかもしれません。
隣の慰安所では、クレゾールを飲んで死んだおなごもいました。病気のとき相手をするのを断ったら軍人に殺されたおなごもいます。空襲で死んだおなごも、兵隊さんと心中したおなごもいました。一緒に死んだって、兵隊さんは自分の国に骨が帰るけど、朝鮮のおなごは死んでも自分の国には帰れません。ただそこで穴掘って埋めるだけです。あんな地獄のような慰安所で死んで、ただ穴掘って埋められておしまい、死んでも国に帰ることもできない朝鮮のおなごたちは本当にかわいそうでした。
けれど、生き残った方が幸せだったのか、戦地で死んだ方が良かったのか。戦争が終わって日本に来てから、海に入って死のうと思ったことが、一度や二度じゃありません。汽車から飛び降りたこともあります。
若い頃は毎日、毎日、兵隊の夢を見ました。うんうんうなされて、びっしょり汗かいて、金沢幸一に起こされました。慰安所のことは、何年経っても、幾ら忘れようとしても、忘れることはできません。ぐしゃぐしゃして、荒れて、大酒飲んで暴れたこともありました。大酒飲んで暴れても、悔しい気持ちが晴れるわけじゃなし、ますます腹が立つだけなのに、ばかなことをしたと今では思います。でも、そのときはそうしねえでえられねがったんです。
なして日本の戦に、まだ訳も分からない朝鮮の子供が連れていかれて、あんな苦労をしなければならなかったのか。考えても、考えても、意味が取れません。だから悔しい気持ちが出るんです。
年を取ってから敬老の日に近所の年寄りには座布団が配られるけんど、私には届きません。何年も同じ町内に暮らしていても、こんなところまで差別付けられてます。近所には軍人恩給をもらって大威張りで暮らしている人もいます。遺族年金をもらっている人もいます。戦地に引っ張っていくときは、お国のため、お国のためと言っておいて、今になって、なして朝鮮人だの慰安婦だの生活保護だのと差別を付けられるのか。全く意味の取れないことばかりです。
だから裁判に訴えました。なんじょのものだか、意味を知りたかったんです。なして私が慰安婦にされたのか、なして差別を付けられるのか、その意味をはっきりさせたかったんです。そして、近所で白い目で見られないようにしてほしかったんです。
裁判を始めたら、生活保護受けて人の税金で食ってるくせに、何の文句があって裁判するのか、日本の国に住んでいるのに日本人ばかり悪者にするな、文句があるなら韓国に帰れなどと言われました。
国民基金をもらえばいいんだと言う人も近所にはいますが、意味の取れない金をもらうわけにはいきません。民間人の金を集めてくれるといっても、また白い目で見られるだけです。
最初に裁判に訴えたときの首相は宮澤さんでした。今の小泉さんでもう八人目です。首相がころころ入れ替わり立ち替わり替わっても、民間人の金を集める話以外は何も出てこない。国会で何か話が出るかと思って、いつもテレビで国会中継を見てます。でも、近ごろじゃちっとも話も出ねえじゃないですか。恥を忍んで、針のむしろに立つ思いで訴えたのに、十年もの間ほん投げられてきました。きちんと謝罪して、申し訳なかったと、意味の取れる補償をしてくれなければ、また恥をかくだけです。
二十年ほど前に金沢幸一が亡くなってからは、ずっと独りで暮らしてきました。日本には肉親は一人もおりません。風邪でも引いて寝ていると、このまま独りで死ぬんじゃないかと思い、恐ろしく、情けなくなります。近所の人たちには家族もおり、子供も孫もいるのに、私は独りです。戦地で日本の軍人の子を二人産みましたが、慰安所では育てられずに他人に預けました。どうにも仕方がなかったとはいえ、親が子供を捨てるような罪作りなことをして罰が当たったんだと涙が出てきます。中国から親捜しの子供が日本に来ると、一人一人顔を確かめて見るが、分かりません。せめて子供でもいてくれれば、こんなに肩身の狭い思いをしなくて済んだのではないかと思えてならねえんです。
裁判を始める前は恥ずかしくてだれにも慰安所のことは話せませんでした。でも、裁判を始めてから、本当にたくさんの人の前で体験を話しました。信用してもらえるかどうか心配でしたが、みんな心から聞いてくれました。中には、私が慰安所に連れていかれたちょうど同じ年ごろの子供もいました。こんな子供に意味が取れるのかと心配で心配で恥ずかしくて話したくなかった、逃げ出したかったけんど、仕方がない、話をしたら、こんな子供でもちゃんと意味を取って、涙を流しながら聞いてくれました。半分は気持ちが晴れました。安心しました。
人の心の一寸先はやみです。慰安所で七年、日本に来てから五十年以上、人の心が信じられずに生きてきました。疑うことしか知りませんでした。でも、裁判かけて体験を話してから、少しは人間らしくなれたと思っています。
私は十六の年から日本人の中で暮らしてきました。日本人と気持ちよく付き合いたいと願い、そう努めてきました。私はあと何年生きられるか分かりません。けれど、日本に住む朝鮮人の子供と日本の子供たちが仲よくするためにも、過去の過ちは過ちとしてきちんと反省して、申し訳なかったと謝罪してほしいです。
世間では、慰安婦は民間業者が連れ歩いたと陰口を言う人もいます。戦地のことは、戦争に行った者でなければ分かりません。戦争がどんなに残酷なものか。民間業者がそんなことできるはずがありません。
あんな残酷な戦争は二度と繰り返してはいかぬのです。慰安婦ばかりでなく、中国の人も、日本の兵隊も、苦しめられた惨めな姿を、私はこの眼で見てきました。なのに、日本政府は再びあの残酷な戦争を始めようとしているように見えます。過去を反省しないから、戦争の恐ろしさを知らないから、そんなことを考えるんです。私の話を
聞いて涙を流してくれた子供たちが、あんな残酷な戦に引っ張られていくことがあったらと思うと、近ごろはまんじりともできません。ほんと、幾らも寝られねえんです。
慰安婦問題を子供たちの時代にまで持ち越さないように、子供たちを二度と残酷な戦争に巻き込まないように、再び戦争するための法律ではなく、過去の問題をきちんと解決する法律を作ってください。そうでないと死んでも死に切れません。よろしく頼みます。
二〇〇二年七月二十三日、宋神道。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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2002年7月23日内閣委員会で
「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の審査がありました。
被害者に参考人として委員会で実際に体験したことを直接話して欲しかったわけ
ですがかなわず、岡崎トミ子さんがその思いを代読されました。
それは在日の被害者で唯一裁判を闘い、当時最高裁に上告中の宋神道(ソン・シンド)さんの陳述
で、事前に心情を語っていただき、裁判を支援する会の方が聞き書きをしたもの
です。宋(ソン)さんは宮城県から傍聴に来られていました。(以下の証言はその議事録
です)
【以下証言】
私は今年満八十歳になります。だまされて慰安所に連れていかれたのは十六歳のときです。 まだ何も分からない、ままごと遊びをしているような子供でした。
何も分からないまま、性病の検査台に乗せられたときには、恥ずかしいやら、恐ろしいやら、痛いやら。検査器は入らないし、あんまり暴れたので、軍医もお尻をぴしゃりとはたいて下ろしてくれました。
泣いて、泣いて、そっち逃げたり、こっち逃げたり。隠れていたら捕まって、髪結び付けて殴ったり、足でけったり。暗い部屋に縛り付けて、飯も食べさせない。そうして死ぬ前に保護して、今日から兵隊さんの言うことを黙って聞くんだぞと、こう言います。そう言われても、その時間になると、やっぱり嫌だから、また同じことの繰り返し。涙ばかり流して。
逃げようとしても帰る道も分かりません。最初は泣いてばかりいましたが、軍人の言うとおりにしなければ帳場に、担当している者に殴られる。軍人には刀で脅される。命が惜しくて、死ぬのだけは嫌でした。だから軍人の言うことを聞ぐしかねがったんです。日本語も必死に覚えて、はたかれないように、殺されないように、一生懸命やったんです。
明日は死ぬという覚悟で戦やっている気の荒い軍人ばかり相手にしてたから、私の気性もすっかり荒くなりました。毎日、毎日びんた取られて、ほっぺたにたこが寄って、今じゃ何ぼたたかれても痛くありません。鼓膜が破れて、耳も片一方しか聞こえません。慰安所で彫られた入れ墨が恥ずかしくて、風呂にも行けません。それでも、生きてこられただけ何ぼかましかもしれません。
隣の慰安所では、クレゾールを飲んで死んだおなごもいました。病気のとき相手をするのを断ったら軍人に殺されたおなごもいます。空襲で死んだおなごも、兵隊さんと心中したおなごもいました。一緒に死んだって、兵隊さんは自分の国に骨が帰るけど、朝鮮のおなごは死んでも自分の国には帰れません。ただそこで穴掘って埋めるだけです。あんな地獄のような慰安所で死んで、ただ穴掘って埋められておしまい、死んでも国に帰ることもできない朝鮮のおなごたちは本当にかわいそうでした。
けれど、生き残った方が幸せだったのか、戦地で死んだ方が良かったのか。戦争が終わって日本に来てから、海に入って死のうと思ったことが、一度や二度じゃありません。汽車から飛び降りたこともあります。
若い頃は毎日、毎日、兵隊の夢を見ました。うんうんうなされて、びっしょり汗かいて、金沢幸一に起こされました。慰安所のことは、何年経っても、幾ら忘れようとしても、忘れることはできません。ぐしゃぐしゃして、荒れて、大酒飲んで暴れたこともありました。大酒飲んで暴れても、悔しい気持ちが晴れるわけじゃなし、ますます腹が立つだけなのに、ばかなことをしたと今では思います。でも、そのときはそうしねえでえられねがったんです。
なして日本の戦に、まだ訳も分からない朝鮮の子供が連れていかれて、あんな苦労をしなければならなかったのか。考えても、考えても、意味が取れません。だから悔しい気持ちが出るんです。
年を取ってから敬老の日に近所の年寄りには座布団が配られるけんど、私には届きません。何年も同じ町内に暮らしていても、こんなところまで差別付けられてます。近所には軍人恩給をもらって大威張りで暮らしている人もいます。遺族年金をもらっている人もいます。戦地に引っ張っていくときは、お国のため、お国のためと言っておいて、今になって、なして朝鮮人だの慰安婦だの生活保護だのと差別を付けられるのか。全く意味の取れないことばかりです。
だから裁判に訴えました。なんじょのものだか、意味を知りたかったんです。なして私が慰安婦にされたのか、なして差別を付けられるのか、その意味をはっきりさせたかったんです。そして、近所で白い目で見られないようにしてほしかったんです。
裁判を始めたら、生活保護受けて人の税金で食ってるくせに、何の文句があって裁判するのか、日本の国に住んでいるのに日本人ばかり悪者にするな、文句があるなら韓国に帰れなどと言われました。
国民基金をもらえばいいんだと言う人も近所にはいますが、意味の取れない金をもらうわけにはいきません。民間人の金を集めてくれるといっても、また白い目で見られるだけです。
最初に裁判に訴えたときの首相は宮澤さんでした。今の小泉さんでもう八人目です。首相がころころ入れ替わり立ち替わり替わっても、民間人の金を集める話以外は何も出てこない。国会で何か話が出るかと思って、いつもテレビで国会中継を見てます。でも、近ごろじゃちっとも話も出ねえじゃないですか。恥を忍んで、針のむしろに立つ思いで訴えたのに、十年もの間ほん投げられてきました。きちんと謝罪して、申し訳なかったと、意味の取れる補償をしてくれなければ、また恥をかくだけです。
二十年ほど前に金沢幸一が亡くなってからは、ずっと独りで暮らしてきました。日本には肉親は一人もおりません。風邪でも引いて寝ていると、このまま独りで死ぬんじゃないかと思い、恐ろしく、情けなくなります。近所の人たちには家族もおり、子供も孫もいるのに、私は独りです。戦地で日本の軍人の子を二人産みましたが、慰安所では育てられずに他人に預けました。どうにも仕方がなかったとはいえ、親が子供を捨てるような罪作りなことをして罰が当たったんだと涙が出てきます。中国から親捜しの子供が日本に来ると、一人一人顔を確かめて見るが、分かりません。せめて子供でもいてくれれば、こんなに肩身の狭い思いをしなくて済んだのではないかと思えてならねえんです。
裁判を始める前は恥ずかしくてだれにも慰安所のことは話せませんでした。でも、裁判を始めてから、本当にたくさんの人の前で体験を話しました。信用してもらえるかどうか心配でしたが、みんな心から聞いてくれました。中には、私が慰安所に連れていかれたちょうど同じ年ごろの子供もいました。こんな子供に意味が取れるのかと心配で心配で恥ずかしくて話したくなかった、逃げ出したかったけんど、仕方がない、話をしたら、こんな子供でもちゃんと意味を取って、涙を流しながら聞いてくれました。半分は気持ちが晴れました。安心しました。
人の心の一寸先はやみです。慰安所で七年、日本に来てから五十年以上、人の心が信じられずに生きてきました。疑うことしか知りませんでした。でも、裁判かけて体験を話してから、少しは人間らしくなれたと思っています。
私は十六の年から日本人の中で暮らしてきました。日本人と気持ちよく付き合いたいと願い、そう努めてきました。私はあと何年生きられるか分かりません。けれど、日本に住む朝鮮人の子供と日本の子供たちが仲よくするためにも、過去の過ちは過ちとしてきちんと反省して、申し訳なかったと謝罪してほしいです。
世間では、慰安婦は民間業者が連れ歩いたと陰口を言う人もいます。戦地のことは、戦争に行った者でなければ分かりません。戦争がどんなに残酷なものか。民間業者がそんなことできるはずがありません。
あんな残酷な戦争は二度と繰り返してはいかぬのです。慰安婦ばかりでなく、中国の人も、日本の兵隊も、苦しめられた惨めな姿を、私はこの眼で見てきました。なのに、日本政府は再びあの残酷な戦争を始めようとしているように見えます。過去を反省しないから、戦争の恐ろしさを知らないから、そんなことを考えるんです。私の話を
聞いて涙を流してくれた子供たちが、あんな残酷な戦に引っ張られていくことがあったらと思うと、近ごろはまんじりともできません。ほんと、幾らも寝られねえんです。
慰安婦問題を子供たちの時代にまで持ち越さないように、子供たちを二度と残酷な戦争に巻き込まないように、再び戦争するための法律ではなく、過去の問題をきちんと解決する法律を作ってください。そうでないと死んでも死に切れません。よろしく頼みます。
二〇〇二年七月二十三日、宋神道。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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