台湾における性暴力被害
★アジア各国の被害状況 - 2013年10月01日 (火)
日本による植民地支配のはじまり
1895年、日本は日清戦争の結果、下関条約で台湾を植民地としますが、台湾住民(中国大陸から移住した漢民族と原住民族(注1))の強い抵抗を受けます。日本は台湾総督府を置き抗日ゲリラを武力で押さえる一方日本語教育による「同化主義」に力をいれます。原住民には「公学校」や「蕃童教育所」を設置し警察官が教師になり、日本語の普及と皇民化教育が行われました。原住民に対する日本語教育は台湾の漢民族以上に徹底され、この皇民化教育はのちの朝鮮、「満州」、などでも繰り返されます。
特に原住民に対する支配には警察力が大きな役割を担い、日本人警察官に強大な権限が与えらました。日本人警察官による過酷な人夫徴発や原住民女性への暴行などが続く中、1930年「霧社事件」と呼ばれる原住民セディク族(タイヤル族系)の日本人にたいする最大の武装蜂起が起き、警官隊と台湾軍が出動し鎮圧します。
日中戦争が始まると、男子は軍属や軍夫として徴用され、日本名への改姓名が行われます。
戦争末期には志願兵制度を経て徴兵制が実施され、原住民たちは「高砂義勇隊」として南方戦線に駆り出されました。
台湾はアジア太平洋戦争における直接の戦場とはなりませんでしたが、林業や鉱山など貴重な資源があり、高雄港、基隆港は軍艦や陸海軍徴用船の寄港地となっていました。「慰安婦」として集められた女性たちは、これらの港を経由して南方に船で送り出されています。
台湾は日本軍が南方地域に戦線を拡大するに従って、兵站基地として重要な軍事的役割を担っていきました。
公娼制度の導入と女性をとりまく状況
台湾における公娼制度は、日本軍とともに導入されました。清代の台湾では娼館があり、私娼は放任されていました。占領当初の軍政期には日本人女性の台湾渡航が原則として禁止されていたために、台湾人娼妓が軍人や官僚の相手をさせられていましたが、性病の蔓延による兵力の低下を理由に軍医から公娼設置の要望が出されます。
1896年、民政になり日本内地からの渡航が自由となると、日本人娼妓が台湾に渡り「貸座敷並娼妓取締規則」(台北県令第一号)を制定、台北以外の各地でも同様の公娼制度が導入されました。台南県の規則では女性の年齢制限が16歳以上と低くなっています。
娼妓や酌婦として生きることを強いられたのは内地や朝鮮の場合と同様、貧困な家庭の女性たちでした。台湾の特徴として漢民族社会では女の子が生まれた場合、金銭と引き換えに幼女を他家に渡す慣行があり、この養女制度が女性を所有「物」として見る事を安易にしたといえます。
台湾人「慰安婦」とされた女性の中には親を早く亡くし、貧困のために「養女」にされた人や学校教育の機会を持てなかった人が多く含まれています。
軍と総督府によって送りだされた「慰安婦」
現時点で確認できるかぎり、台湾内でもっとも早い時期に日本軍慰安所が作られたのは1937年中国から送られた部隊が高雄州東湾郡に上陸した時のものです。複数の兵士の回想録で、急ごしらえの慰安所に狩り集められた内地人・朝鮮人・台湾人の女たちがいた、と書き残されています。また、被害者証言からも台湾に複数の軍慰安所が存在していた事が分かっています。
一方、中国華南地域への占領地の拡大とともに、台湾総督府は組織的に「慰安婦」の徴集と送出に関わっていきます。
現地軍および陸軍省からの依頼に基づいて、内務省と台湾総督府が「慰安婦」の徴募と送出に関わっていた事を示す公文書「支那渡航婦女に関する件伺」が国立公文書館に残されています。(注2)内容は、1938年11月、第21軍の意向を受けて内務省警保局警務課長より警保局長に提出された文書で、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名を渡航せしむ様」との要請を受け、内務省が5府県に400名を割り当てるとする一方「既に台湾総督府の手を通じ同地より約三百名渡航の手配済」と記されています。
日中戦争期には、台湾での「慰安婦」徴集は総督府中心でしたが、太平洋戦争以降は台湾軍が主体的に徴集し、送出していきます。
徴集された台湾人女性は、病院の看護婦助手、食堂の給仕などの甘言で誘われ、海南島、マニラ、インドネシア、マレーシア、ボルネオ島(注3)などの南方各地に船で送られました。目的地に着くまで「慰安婦」として働くとは考えておらず、南方の戦況についての認識もほとんど持っていませんでした。激戦地に送られた女性は自力で帰還する事は不可能でした。
「慰安婦」として海外に送られたのは漢民族の女性たちで原住民女性は次に述べるように台湾の日本軍駐屯地で集団強かんの被害に遭っています。
原住民女性に対する「性奴隷」の強制
台湾の原住民族は単一の民族ではなく、言語や文化などの相違により九部族に分かれています。日本統治初期には「蕃族」その後は「高砂族」と呼ばれました。原住民は山地農業や狩猟により生活をしていましたが、日本軍の駐屯地確保のため、部族の居留地を強制的に移動させられ警察の監視下に置かれました。
警官の指示で道路工事・補修、駐在所・公共施設などへの使役に駆りだされ農作業が出来ないばかりか、反抗すると家が焼き打ちにされ、原住民の不信感と不満が蓄積していきます。また懐柔策として部族の「頭目」(リーダー)や勢力者の娘と、警官との政略結婚がなされますが、帰国により現地妻が捨てられるケースが多くありました。本来の生活の場を追われ、働き手である男性を兵隊や使役として奪われた女性たちは生きるすべを失います。
このような状況の中、管轄の警察官は女性たちに日本軍の雑用をすれば、給料が支払われると誘いました。女性たちは部隊で雑用に使役され、雑用後は強かんされる事が繰り返されます。強かんされ続けた女性たちの多くが妊娠している事から、兵士にはコンドームをつける事さえ徹底されていなかった事が分かります。
被害女性たちの戦後
日本軍は敗戦後、慰安所の被害女性たちに対し、自国に帰還させるための手配をしませんでした。台湾人被害者の場合、台湾同郷会に助けられた、病院船に乗れた、自力で船賃を払い乗船したなど、生き残った女性はさまざま手段で帰郷を果たしています。
一方原住民の被害者は日本が降伏した事を知らず、日本兵が徐々に少なくなっていった、突然いなくなった、という状況で解放を迎えます。中には日本兵が撤退する1946年3月まで被害を受け続けた例があります。
解放後は漢民族も原住民族も貞操観念の強い父権社会であったため、どの被害者も自身が受けた被害について口を閉ざしました。結婚相手に「過去」を知られての離婚、子どもが生まれない事による離婚、また過酷な生活の後遺症は体だけではなく、精神的にも強いトラウマを残しました。
金学順さんが元「慰安婦」として名乗り出た翌年1992年、台湾でも公文書「台湾軍 南方渡航者に関する件」(注3)の存在が明らかになり、「婦女救援基金会(婦援会)」(注4)がホットラインを開設し、「慰安婦」にされた女性たちに連絡を呼び掛けました。1999年、支援の人たちに励まされ『台湾の元「慰安婦」謝罪請求・損害賠償』を東京地裁に提訴します。(2005年敗訴確定)
自分たちの「過去」を「恥ずかしい」と繰り返していた彼女たちが「恥ずかしいのは自分ではなく、そんな目にあわせた日本なのだ」と気持ちが変化し、顔も名前も隠さず裁判で証言できるように尊厳を回復していきました。
(注1)現在、彼らは「台湾の元来の主人公」という意味をこめて、自らの呼称を「原住民族」としている。漢語の「先住民族」には「すでに滅んでしまった民族」という意味が含まれるため、今では台湾でこの表記は使用されていない。台湾の状況を説明するにあたって、ここでは彼らの意思を尊重し「原住民族」を使用します。
(注2)
国立公文書館 アジア歴史資料センター
検索で「支那渡航婦女に関する件伺」
(注3)台湾軍 南方渡航者に関する件1942.3&42.6
南方軍が、台湾人「慰安婦」50名をボルネオへ派遣するよう要求してきたので、台湾軍司令官は、1942年3月12日付で、憲兵が調査選定した業者3名の渡航許可を陸軍省に要請、陸軍省は3月16日にこれを認可した。さらに1942年6月13日には、50名をボルネオに送ったが「稼業に堪へざる者」が出るなどの理由で20名を追加で送りたい旨を陸軍省に打診している。
(注4)台北市婦女救援社会福利事業基金会 1987年設立
台北で少女売春など、女性の人権問題に取り組む。
【参考資料】
台湾の阿媽とともに:台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会
同上HPから裁判訴状
「日本軍性奴隷制を裁く - 2000年女性国際戦犯法廷の記録」
第3巻「慰安婦」」・戦時性暴力の実態I-日本・台湾・朝鮮編(緑風出版)
写真記録「台湾植民地統治史」(林えいだい編 梓書院)
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1895年、日本は日清戦争の結果、下関条約で台湾を植民地としますが、台湾住民(中国大陸から移住した漢民族と原住民族(注1))の強い抵抗を受けます。日本は台湾総督府を置き抗日ゲリラを武力で押さえる一方日本語教育による「同化主義」に力をいれます。原住民には「公学校」や「蕃童教育所」を設置し警察官が教師になり、日本語の普及と皇民化教育が行われました。原住民に対する日本語教育は台湾の漢民族以上に徹底され、この皇民化教育はのちの朝鮮、「満州」、などでも繰り返されます。
特に原住民に対する支配には警察力が大きな役割を担い、日本人警察官に強大な権限が与えらました。日本人警察官による過酷な人夫徴発や原住民女性への暴行などが続く中、1930年「霧社事件」と呼ばれる原住民セディク族(タイヤル族系)の日本人にたいする最大の武装蜂起が起き、警官隊と台湾軍が出動し鎮圧します。
日中戦争が始まると、男子は軍属や軍夫として徴用され、日本名への改姓名が行われます。
戦争末期には志願兵制度を経て徴兵制が実施され、原住民たちは「高砂義勇隊」として南方戦線に駆り出されました。
台湾はアジア太平洋戦争における直接の戦場とはなりませんでしたが、林業や鉱山など貴重な資源があり、高雄港、基隆港は軍艦や陸海軍徴用船の寄港地となっていました。「慰安婦」として集められた女性たちは、これらの港を経由して南方に船で送り出されています。
台湾は日本軍が南方地域に戦線を拡大するに従って、兵站基地として重要な軍事的役割を担っていきました。
公娼制度の導入と女性をとりまく状況
台湾における公娼制度は、日本軍とともに導入されました。清代の台湾では娼館があり、私娼は放任されていました。占領当初の軍政期には日本人女性の台湾渡航が原則として禁止されていたために、台湾人娼妓が軍人や官僚の相手をさせられていましたが、性病の蔓延による兵力の低下を理由に軍医から公娼設置の要望が出されます。
1896年、民政になり日本内地からの渡航が自由となると、日本人娼妓が台湾に渡り「貸座敷並娼妓取締規則」(台北県令第一号)を制定、台北以外の各地でも同様の公娼制度が導入されました。台南県の規則では女性の年齢制限が16歳以上と低くなっています。
娼妓や酌婦として生きることを強いられたのは内地や朝鮮の場合と同様、貧困な家庭の女性たちでした。台湾の特徴として漢民族社会では女の子が生まれた場合、金銭と引き換えに幼女を他家に渡す慣行があり、この養女制度が女性を所有「物」として見る事を安易にしたといえます。
台湾人「慰安婦」とされた女性の中には親を早く亡くし、貧困のために「養女」にされた人や学校教育の機会を持てなかった人が多く含まれています。
軍と総督府によって送りだされた「慰安婦」
現時点で確認できるかぎり、台湾内でもっとも早い時期に日本軍慰安所が作られたのは1937年中国から送られた部隊が高雄州東湾郡に上陸した時のものです。複数の兵士の回想録で、急ごしらえの慰安所に狩り集められた内地人・朝鮮人・台湾人の女たちがいた、と書き残されています。また、被害者証言からも台湾に複数の軍慰安所が存在していた事が分かっています。
一方、中国華南地域への占領地の拡大とともに、台湾総督府は組織的に「慰安婦」の徴集と送出に関わっていきます。
現地軍および陸軍省からの依頼に基づいて、内務省と台湾総督府が「慰安婦」の徴募と送出に関わっていた事を示す公文書「支那渡航婦女に関する件伺」が国立公文書館に残されています。(注2)内容は、1938年11月、第21軍の意向を受けて内務省警保局警務課長より警保局長に提出された文書で、「南支派遣軍の慰安所設置の為必要に付、醜業を目的とする婦女四百名を渡航せしむ様」との要請を受け、内務省が5府県に400名を割り当てるとする一方「既に台湾総督府の手を通じ同地より約三百名渡航の手配済」と記されています。
日中戦争期には、台湾での「慰安婦」徴集は総督府中心でしたが、太平洋戦争以降は台湾軍が主体的に徴集し、送出していきます。
徴集された台湾人女性は、病院の看護婦助手、食堂の給仕などの甘言で誘われ、海南島、マニラ、インドネシア、マレーシア、ボルネオ島(注3)などの南方各地に船で送られました。目的地に着くまで「慰安婦」として働くとは考えておらず、南方の戦況についての認識もほとんど持っていませんでした。激戦地に送られた女性は自力で帰還する事は不可能でした。
「慰安婦」として海外に送られたのは漢民族の女性たちで原住民女性は次に述べるように台湾の日本軍駐屯地で集団強かんの被害に遭っています。
原住民女性に対する「性奴隷」の強制
台湾の原住民族は単一の民族ではなく、言語や文化などの相違により九部族に分かれています。日本統治初期には「蕃族」その後は「高砂族」と呼ばれました。原住民は山地農業や狩猟により生活をしていましたが、日本軍の駐屯地確保のため、部族の居留地を強制的に移動させられ警察の監視下に置かれました。
警官の指示で道路工事・補修、駐在所・公共施設などへの使役に駆りだされ農作業が出来ないばかりか、反抗すると家が焼き打ちにされ、原住民の不信感と不満が蓄積していきます。また懐柔策として部族の「頭目」(リーダー)や勢力者の娘と、警官との政略結婚がなされますが、帰国により現地妻が捨てられるケースが多くありました。本来の生活の場を追われ、働き手である男性を兵隊や使役として奪われた女性たちは生きるすべを失います。
このような状況の中、管轄の警察官は女性たちに日本軍の雑用をすれば、給料が支払われると誘いました。女性たちは部隊で雑用に使役され、雑用後は強かんされる事が繰り返されます。強かんされ続けた女性たちの多くが妊娠している事から、兵士にはコンドームをつける事さえ徹底されていなかった事が分かります。
被害女性たちの戦後
日本軍は敗戦後、慰安所の被害女性たちに対し、自国に帰還させるための手配をしませんでした。台湾人被害者の場合、台湾同郷会に助けられた、病院船に乗れた、自力で船賃を払い乗船したなど、生き残った女性はさまざま手段で帰郷を果たしています。
一方原住民の被害者は日本が降伏した事を知らず、日本兵が徐々に少なくなっていった、突然いなくなった、という状況で解放を迎えます。中には日本兵が撤退する1946年3月まで被害を受け続けた例があります。
解放後は漢民族も原住民族も貞操観念の強い父権社会であったため、どの被害者も自身が受けた被害について口を閉ざしました。結婚相手に「過去」を知られての離婚、子どもが生まれない事による離婚、また過酷な生活の後遺症は体だけではなく、精神的にも強いトラウマを残しました。
金学順さんが元「慰安婦」として名乗り出た翌年1992年、台湾でも公文書「台湾軍 南方渡航者に関する件」(注3)の存在が明らかになり、「婦女救援基金会(婦援会)」(注4)がホットラインを開設し、「慰安婦」にされた女性たちに連絡を呼び掛けました。1999年、支援の人たちに励まされ『台湾の元「慰安婦」謝罪請求・損害賠償』を東京地裁に提訴します。(2005年敗訴確定)
自分たちの「過去」を「恥ずかしい」と繰り返していた彼女たちが「恥ずかしいのは自分ではなく、そんな目にあわせた日本なのだ」と気持ちが変化し、顔も名前も隠さず裁判で証言できるように尊厳を回復していきました。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(明)
(注1)現在、彼らは「台湾の元来の主人公」という意味をこめて、自らの呼称を「原住民族」としている。漢語の「先住民族」には「すでに滅んでしまった民族」という意味が含まれるため、今では台湾でこの表記は使用されていない。台湾の状況を説明するにあたって、ここでは彼らの意思を尊重し「原住民族」を使用します。
(注2)

検索で「支那渡航婦女に関する件伺」
(注3)台湾軍 南方渡航者に関する件1942.3&42.6
南方軍が、台湾人「慰安婦」50名をボルネオへ派遣するよう要求してきたので、台湾軍司令官は、1942年3月12日付で、憲兵が調査選定した業者3名の渡航許可を陸軍省に要請、陸軍省は3月16日にこれを認可した。さらに1942年6月13日には、50名をボルネオに送ったが「稼業に堪へざる者」が出るなどの理由で20名を追加で送りたい旨を陸軍省に打診している。
(注4)台北市婦女救援社会福利事業基金会 1987年設立
台北で少女売春など、女性の人権問題に取り組む。
【参考資料】


「日本軍性奴隷制を裁く - 2000年女性国際戦犯法廷の記録」
第3巻「慰安婦」」・戦時性暴力の実態I-日本・台湾・朝鮮編(緑風出版)
写真記録「台湾植民地統治史」(林えいだい編 梓書院)
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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