「訃報」 インドネシア スリ・スカンティさんのご冥福をお祈りします
訃報 - 2018年02月23日 (金)
悲しいお知らせです。
2014年 インドネシアからお迎えして、交流お話を伺いましたスカンティさんが昨年 クリスマス前にお亡くなりになったと訃報が届きました。
9才の時に 親から引き離され日本軍兵舎に連れて行かれたことを思うと本当に恐ろしかったことでしょう。(以下に証言)
年々 被害者の方が亡くなります。 この 歴史の事実から目を背けてはいけないと思います。
スリ・スカンティさんが天国で安らかでありますようにとお祈りします。
インドネシア スリ・スカンティさんの場合( 2013/10/17)
スリ・スカンティさん 福岡滞在報告(2015/10/15)
以下 木村公一さんからのご報告 と証言
2017年12月20日、スリ・スカンティ(Sri Sukanti、1934年、中央ジャワ、プルウォダディで生れる)は83歳の苦難の生涯を閉じました。2013年の彼女の証言を下に記します。
「わたしは中央ジャワ、プルウォダディ郡長の12人の子どもの末っ子として生まれました。1943年、わたしが9歳になったある日のこと、グンディ村の国民学校の1年生として学び始めたばかりの時でした。村長とオガワという名の日本軍将校が2名の副官を連れて来ました。彼らはいきなり威圧的な言葉と態度で両親に向ってわたしを差し出すようにと要求しました。父親の胸には日本刀が突きつけられ、母親はただ泣くことしかできませんでした。
こうして、将校たちはわたしを自宅からそれほど離れていない同じプルヲダディ郡に位置する日本軍兵舎へと連れて行きました。わたしが監禁された場所は日本軍駐屯施設のただ中にある「パパック館」と呼ばれていた建物でした。そこでわたしは強姦され、オガワの性欲を満たす道具とされたのです。実は、その兵舎には他にもわたしと同じように拉致・強姦された数名の若い娘がいました。彼女たちは下士官たちの性的奴隷にさせられていたため、「パパック館」の外側に配置されていました。一方で、わたしはオガワの「所有物」にさせられました。「パパック館」で生活していた間は、オガワがわたしを二階に閉じ込めたため、バルコニー以外で自由に生活することはできませんでした。
わたしの子宮はオガワの性暴力のせいで深い傷を負わされたので出血が止まらなかったため、わたしは両親のもとに帰らせて欲しいと何度もオガワに願い出ました。わたしはやっと、オガワの〔性〕暴力から解放されてグンディ村の自宅に帰されました。変わり果てたわたしを見て、両親は大きな衝撃を受け、直ちに入院治療をうけさせました。結局一ヶ月以上の入院と治療が必要となり、心と体の傷はわたしを今日まで苦しめています。
それ以来、外出すると必ず村の若者たちから「日本兵に使いまわされた女」という誹謗を受けることになりました。わたしは今まで二度結婚しましたが、子宮の傷のゆえに子どもには恵まれませんでした。いまのわたしの生活は決して恵まれているとは言えません。わたしの夫は以前、建築現場で作業中に事故にあい障害者になりました。だからわたしは夫の分まで働かなくてはならず、マッサージと死体を洗浄する仕事で日々の生計を立てて、今日まで生きてきました。」


注 上の写真は葬儀の写真です。下の写真は2013年9月16日、サラティガ(中部ジャワ)にて、インタビューをしたときに撮影したものです。撮影している人々は映画監督ピラール氏とそのスタッフたちです。
2014年 インドネシアからお迎えして、交流お話を伺いましたスカンティさんが昨年 クリスマス前にお亡くなりになったと訃報が届きました。
9才の時に 親から引き離され日本軍兵舎に連れて行かれたことを思うと本当に恐ろしかったことでしょう。(以下に証言)
年々 被害者の方が亡くなります。 この 歴史の事実から目を背けてはいけないと思います。
スリ・スカンティさんが天国で安らかでありますようにとお祈りします。
インドネシア スリ・スカンティさんの場合( 2013/10/17)
スリ・スカンティさん 福岡滞在報告(2015/10/15)
「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会 池田道子
以下 木村公一さんからのご報告 と証言
2017年12月20日、スリ・スカンティ(Sri Sukanti、1934年、中央ジャワ、プルウォダディで生れる)は83歳の苦難の生涯を閉じました。2013年の彼女の証言を下に記します。
「わたしは中央ジャワ、プルウォダディ郡長の12人の子どもの末っ子として生まれました。1943年、わたしが9歳になったある日のこと、グンディ村の国民学校の1年生として学び始めたばかりの時でした。村長とオガワという名の日本軍将校が2名の副官を連れて来ました。彼らはいきなり威圧的な言葉と態度で両親に向ってわたしを差し出すようにと要求しました。父親の胸には日本刀が突きつけられ、母親はただ泣くことしかできませんでした。
こうして、将校たちはわたしを自宅からそれほど離れていない同じプルヲダディ郡に位置する日本軍兵舎へと連れて行きました。わたしが監禁された場所は日本軍駐屯施設のただ中にある「パパック館」と呼ばれていた建物でした。そこでわたしは強姦され、オガワの性欲を満たす道具とされたのです。実は、その兵舎には他にもわたしと同じように拉致・強姦された数名の若い娘がいました。彼女たちは下士官たちの性的奴隷にさせられていたため、「パパック館」の外側に配置されていました。一方で、わたしはオガワの「所有物」にさせられました。「パパック館」で生活していた間は、オガワがわたしを二階に閉じ込めたため、バルコニー以外で自由に生活することはできませんでした。
わたしの子宮はオガワの性暴力のせいで深い傷を負わされたので出血が止まらなかったため、わたしは両親のもとに帰らせて欲しいと何度もオガワに願い出ました。わたしはやっと、オガワの〔性〕暴力から解放されてグンディ村の自宅に帰されました。変わり果てたわたしを見て、両親は大きな衝撃を受け、直ちに入院治療をうけさせました。結局一ヶ月以上の入院と治療が必要となり、心と体の傷はわたしを今日まで苦しめています。
それ以来、外出すると必ず村の若者たちから「日本兵に使いまわされた女」という誹謗を受けることになりました。わたしは今まで二度結婚しましたが、子宮の傷のゆえに子どもには恵まれませんでした。いまのわたしの生活は決して恵まれているとは言えません。わたしの夫は以前、建築現場で作業中に事故にあい障害者になりました。だからわたしは夫の分まで働かなくてはならず、マッサージと死体を洗浄する仕事で日々の生計を立てて、今日まで生きてきました。」


注 上の写真は葬儀の写真です。下の写真は2013年9月16日、サラティガ(中部ジャワ)にて、インタビューをしたときに撮影したものです。撮影している人々は映画監督ピラール氏とそのスタッフたちです。
木村公一
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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