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「訃報」  インドネシア スリ・スカンティさんのご冥福をお祈りします

悲しいお知らせです。

2014年 インドネシアからお迎えして、交流お話を伺いましたスカンティさんが昨年 クリスマス前にお亡くなりになったと訃報が届きました。
9才の時に 親から引き離され日本軍兵舎に連れて行かれたことを思うと本当に恐ろしかったことでしょう。(以下に証言)
 年々 被害者の方が亡くなります。 この 歴史の事実から目を背けてはいけないと思います。
スリ・スカンティさんが天国で安らかでありますようにとお祈りします。

インドネシア スリ・スカンティさんの場合( 2013/10/17)

スリ・スカンティさん 福岡滞在報告(2015/10/15)

 「慰安婦」問題と取り組む九州キリスト者の会  池田道子 





以下  木村公一さんからのご報告 と証言

2017年12月20日、スリ・スカンティ(Sri Sukanti、1934年、中央ジャワ、プルウォダディで生れる)は83歳の苦難の生涯を閉じました。2013年の彼女の証言を下に記します。  

「わたしは中央ジャワ、プルウォダディ郡長の12人の子どもの末っ子として生まれました。1943年、わたしが9歳になったある日のこと、グンディ村の国民学校の1年生として学び始めたばかりの時でした。村長とオガワという名の日本軍将校が2名の副官を連れて来ました。彼らはいきなり威圧的な言葉と態度で両親に向ってわたしを差し出すようにと要求しました。父親の胸には日本刀が突きつけられ、母親はただ泣くことしかできませんでした。
こうして、将校たちはわたしを自宅からそれほど離れていない同じプルヲダディ郡に位置する日本軍兵舎へと連れて行きました。わたしが監禁された場所は日本軍駐屯施設のただ中にある「パパック館」と呼ばれていた建物でした。そこでわたしは強姦され、オガワの性欲を満たす道具とされたのです。実は、その兵舎には他にもわたしと同じように拉致・強姦された数名の若い娘がいました。彼女たちは下士官たちの性的奴隷にさせられていたため、「パパック館」の外側に配置されていました。一方で、わたしはオガワの「所有物」にさせられました。「パパック館」で生活していた間は、オガワがわたしを二階に閉じ込めたため、バルコニー以外で自由に生活することはできませんでした。

わたしの子宮はオガワの性暴力のせいで深い傷を負わされたので出血が止まらなかったため、わたしは両親のもとに帰らせて欲しいと何度もオガワに願い出ました。わたしはやっと、オガワの〔性〕暴力から解放されてグンディ村の自宅に帰されました。変わり果てたわたしを見て、両親は大きな衝撃を受け、直ちに入院治療をうけさせました。結局一ヶ月以上の入院と治療が必要となり、心と体の傷はわたしを今日まで苦しめています。

それ以来、外出すると必ず村の若者たちから「日本兵に使いまわされた女」という誹謗を受けることになりました。わたしは今まで二度結婚しましたが、子宮の傷のゆえに子どもには恵まれませんでした。いまのわたしの生活は決して恵まれているとは言えません。わたしの夫は以前、建築現場で作業中に事故にあい障害者になりました。だからわたしは夫の分まで働かなくてはならず、マッサージと死体を洗浄する仕事で日々の生計を立てて、今日まで生きてきました。」



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    2013-09-16インタビュー


      上の写真は葬儀の写真です。下の写真は2013年9月16日、サラティガ(中部ジャワ)にて、インタビューをしたときに撮影したものです。撮影している人々は映画監督ピラール氏とそのスタッフたちです。



  木村公一 




 「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク

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「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク

Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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