ロラたちとの一期一会(4)
連載:フィリピン便り - 2016年01月11日 (月)
2015年の年の瀬、慰安婦問題の解決に向けた日韓両政府による合意がなされたというニュースがネットを通じ飛び込んできた。
マニラ恒例の花火と爆竹、大音響で大みそかの夜を過ごし、新年を迎えると、今度はネットニュースなどから韓国の慰安婦被害者や支援団体などが合意に反対しているという情報が入ってきた。こと慰安婦問題については戦後70年が経過しても、まだまだ解決の道は遠いというのが実情だろう。
やはり安倍政権が慰安婦や性奴隷という加害の事実に向き合うこと、つまり被害者らに直接聞き取りしたり、面談したりして解決の道を探ろうとしないことに、今回は一番の問題点があるのではないかと思う。
フィリピン人で性奴隷被害を受けたロラ(フィリピン語で「おばあさん」のこと)の一人からかつて、「どうして日本政府は自らフィリピンに調査団を派遣して、被害事実について調べに来ないのか」と質問されたことがある。
首相によるお詫びの手紙や基金による支援金の支給という一種の行政手続きだけで済ますのではなく、やはり加害の事実を認めるにあたり、被害者の要望を聞き取り、被害(加害)の調査を自ら行うなど、日本政府が真剣に一人ひとりの被害者らに向き合っているという姿勢を見せることが重要なのではないだろうか。
こんなニュースを耳にしながら、昔、撮った一枚の写真が思い出された。
レイテ島のある村で、被害者のひとりだった故レメディアス・フェリアスさんが泣きながら腰まで水につかって川を歩いている写真だ。今となっては写真を撮った正確な日時やその時の状況をはっきりとは思い出せない。
しかし、その写真を見るたびに、ロラ・レメディアスさんが当時、なぜあんなに多くの絵やキルトを作成して、日本軍によって受けた性奴隷被害の様子を克明に残そうとしたのか、その苦しい心の深淵を垣間見せられるような気持がするのだ。
その時の現地調査は、レイテ島の農民たちに水牛を送る活動を進める市民団体「水牛家族」を主宰するジャーナリスト、竹見智恵子さんの発案で行われた。
そもそもロラ・レメディアスさんは、慰安婦支援団体「リラ・ピリピナ」で精神科医の指導を受けて、被害の様子を表現するという心理療法の活動に参加した際、自身の被害を詳細にクレヨンで紙に描き、キルトを何枚も作成することに没頭した人だった。
その作品集を日本で出版できないかと相談を受けた私がフィリピン人性奴隷被害者の支援も行っていた竹見さんに声をかけたのがきっかけだった。竹見さんはレイテ島にあるロラ・レメディアスさんの被害地を本人の案内で実際に巡ることを提案したのだった。
大岡昇平の「レイテ戦記」でも知られる通り、レイテ島は日米両軍による熾烈な戦闘が繰り広げられ、旧日本軍だけでも配置された兵員の9割を超す8万人近くが亡くなったと言われる場所だ。現在も激戦地となった場所には旧日本軍の師団や各部隊による慰霊碑が各地に建てられ、元軍人やその遺族たちが毎年のように慰霊団を組んで巡っている。
この太平洋戦争でも有数の激戦地で実は、多くのフィリピン人女性たちが前線の日本軍兵士たちによる性奴隷被害を受けていたという事実を、生き証人のロラから直接聞き取り、被害地を取材することで確認し、それをロラの絵日記の出版にも生かしたいというのがわれわれの希望だった。
われわれ一行はまず、ロラ・レメディアスさんの案内でレイテ島中部のブラウエン町にある彼女の生まれ故郷だったエスペランサ村に立ち寄った。
見渡す限りココナツ林と田んぼが交互に広がり、ときどき水牛に乗った子どもや農夫の姿を目にするようなのんびりした田舎だった。数十年ぶりに現地を訪れたというロラが、なんとか昔住んでいた場所を案内してくれた。そこで村人と立ち話していると、被害当時14歳だったロラを知っているというお爺さんが現れた。ロラと現地語で話をすると確かに本人を覚えていた。
またロラはちょうど近くにあった家の敷地を囲む鉄線の垣根を見ると、「ちょうどあんな感じだった」と駆け寄った。彼女の絵日記「もうひとつのレイテ戦~日本軍に捕らえられた少女の絵日記」(ブカンブコン発行、竹見智恵子監修)の中で描かれているとおり、当時、逃げ遅れた彼女が日本兵に捕まったのと同じ状況を説明するために、その垣根に実際によじ登り、鉄条網に太ももが引っ掛かったために捕まった様子を忠実に再現しようとしたのだ。われわれは「そこまでしなくても」とはらはらして見ていたが当時のことが思い出されたのだろう、ロラはあっと言う間に垣根によじ登ると、涙ながらに捕まった当時の様子を語ったのだ。
その後、ロラは日本軍に連行され監禁されていた駐屯地跡であるブラウエン町の中心部にあるブラウエン小学校を案内してくれることになっていた。
車でもと来た道を引き返してブラウエン町中心部に戻る途中だった。ある川を横切るとき、ロラは突然、「ここで日本兵に殺されそうになったのよ」と叫んだ。
川沿いの道で車を降りるとロラは一人でずんずんと川に向かって歩き、そのまま水の中に入っていく。周囲には休日でしかも暑い盛りの日中だったためか大勢の村人たちが川で水遊びしたり、洗濯したりしていた。その村人たちの視線も構わず、ロラはずんずんと川の中ほどまで歩いていった。
われわれは何が起きたのかとあっけに取られていたが、ロラは腰まで水につかりながら、「ここで日本兵に頭を水に押しつけられた。てっきり殺されると思ったのよ」と涙ながらに大声でわれわれに向かって叫んだ。当時、日本軍部隊に捕まり、輪姦された後、ロラは動物を引き立てるように手を縄でくくられて連行された。最初の川にさし掛かった時、鉄条網に引っかかった時の傷や性器から血が流れ出ていた彼女を見て、当時の日本兵が彼女の体を川に沈めて血を洗い流そうとしたのだという。
「ロラ。もういいよ。早く上がってきて。本当に溺れるかもしれないよ」とわれわれはロラを制止するばかりだった。ずんずんと川の中に突き進み、泣きながら当時の様子を再現するロラはその時、戦争当時とあまり変わらないレイテ島の故郷の景色に接し、被害の悪夢が圧倒的な現実味を持って再び立ち現われ、恐怖感で一杯になったのではないだろうか。
ロラ・レメディアスさんの絵本はその後完成し、彼女は東京での証言集会やワークショップにも招待された。
私は東京の集会に通訳として同行した。若い大学生から社会人、高齢者まで様々な年代の人たちが参加したあるワークショップでは、ロラの絵日記を基に、参加者たちがグループに分かれ、14歳の頃の自分たちの生活や当時の夢を語り合うことで、少女時代のロラが受けた被害の深刻さを改めて心に刻むという内容だった。
東京にあるフィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩(ロラ・ネット)ワークショップ・チームによる指導で、戦争中に青春時代を送った年配の方や受験勉強に明け暮れたり、恋に悩んだりした普通の若者の姿など、参加者がグループごとに率直に体験を語り合うと、当時受けたであろうロラの被害の甚大さに気づき涙する姿があちこちで見られた。
普通の証言集会ではなかなか味わえない、参加者同士の暖かい心の交流をロラも時々、微笑んで見守っていた。そんなロラが集会の最後にメッセージを求められた時だった。
彼女は感謝の言葉を述べた後、つっと立ち上がると、そのまま参加者一人ひとりに歩み寄り、握手を求めたのだった。予定にはなかった行動で、関係者はみな驚いた。しかし、小柄で白髪のロラが涙を浮かべながら会場の一人ひとりに握手を求める姿は、参加者たちに強い感動を与えた。
その時のロラの目に浮かんだ涙は、レイテ島で流したものとは違い、自分の思いを共有し罪の意識まで表明してくれた日本人参加者たちに対する感謝の念が引き起こした涙だったに違いない。
澤田公伸 (つづく)
【写真説明】
上部左ブラウエン町の川に浸かりながら当時の経験を涙しながら証言するロラ・レメディアスさん
上部右東京で開かれたワークショップの最後に参加者の一人ひとりに歩み寄り握手したり抱擁したりするロラ・レメディアスさん
下ロラ・レメディアスさんが当時の被害の様子を描いたキルトの一部分
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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