10月12日 映画会のお礼と報告
★ブログメンバーからのメッセージ - 2015年10月22日 (木)
戦後70年企画第二弾 ~ 私がいたことを忘れないでほしい ~
班忠義監督「太陽がほしい」と土井敏邦監督「“記憶”と生きる」の上映会が皆様のご協力で無事終了することができました。心からお礼申し上げます。祝日の朝10時から終了が午後7時という長時間にも関わらす、熱心な参加者に主催した私たちは大いに勇気づけられました。午前の部の入場者は約170名(学生数十名を含む)、午後の部もそのまま残られた方も多く、「慰安婦」問題に改めて関心を持たれたと思われる方々の参加がありました。
二人の監督は映画制作の背景を語られ、私たちの社会が現在抱えている問題点を指摘されました。「慰安婦」問題を通し過去と現在、未来に対し私たち一人ひとりに重い宿題を出された映画でした。
班忠義監督「太陽がほしい」
前作の「ガイサンシーとその姉妹たち」は中国山西省における戦時性暴力被害者たちと元日本兵の証言が主になっていたが、その事実に加え今回はより大きな枠で「慰安婦」問題をとりまく社会全体が描かれていました。
加害を認めようとしないのは一般の人にとどまらず、国家権力が立ちはだかっている現実を貴重なフィルム証言で私たちに示してくれました。
監督は「私を“監督”にしてくれたのはおばあさんからのプレゼントである。そして名もない人たちのカンパが折れそうな気持になった時支えてくれた。中国での取材は政治体制から特別な困難があったが、その中でこのような作品が出来上がりました。」と話されました。
土井敏邦監督「“記憶”と生きる」
映画は最初から最後までナレーションも音楽もない、証言者の肉声だけで構成されていました。監督はその意図を「慰安婦」というマスではなく名前と顔と声とそれぞれが違った個人である事を分かって欲しかった。個人を見れば自分だったらという想像力や痛みへの共感性が生まれる、と言われました。映画は「ナヌムの家」で生活を始めたおばあさんたちの証言で「慰安婦」被害の実態と戦後どのように生きてきたのか、が語られます。被害者は戦後、差別と貧困の中で屈辱感を抱えたまま生きてきた苦しみを一人ひとり自分の言葉で語ります。それが「“記憶”と生きる」というタイトルに繋がります。
土井監督は1994年から1997年にかけて記録した映像を今年映画化するきっかけとして二つの出来事を上げられました。ひとつは橋下大阪市長の発言と安世鴻「慰安婦」ニコン写真展の中止事件です。韓国人の安世鴻氏が写真展を開くため闘っている姿に本来日本人こそがすべき仕事ではないかと、撮りためたフィルムを映画にする事を決心した、と語られました。
二つの作品には期せずして万愛花さんと姜徳景さんが息を引き取られる直前の場面が記録されていました。彼女たちは病床で最期まで尊厳の回復を願い日本の責任を問い続けました。お二人の監督が被害に遭った彼女たちの言葉を後世にまで伝えるよう記録し残してくださったことに感謝し、多くの人たちに見て頂きたいと思いました。
アンケート(34枚)より抜粋
・中国の「慰安婦」の方たちについてはよく知らなかったので、班監督の熱意、思いに頭が下がります。
・万愛花さんの「私は慰安婦ではない」「真実がほしい、死んでも魂となって闘っていく」という言葉が忘れられません。
・1990年代日本の支援活動~2000年代のことまで知ることができた。
・極端な被害を強いられた女性たちの人権を問う事を生涯の使命とされた班さんに最大の敬意と感謝を捧げます。
・被害をうけたお一人お一人が戦後の苦難を生き抜いてこられた事に感銘を受けました。
・証言を淡々と積み重ねているだけのようで一秒たりとも目を離せない力のあるものとなっていました。ずっしりと重いものが、体の中に残りました。
・心と身体に傷を受け未だ癒されることのない憤りに心震える思いです。
アンケートに答えて下さったほとんどの方が今の安倍政権のもとで進む日本の将来に危機感を抱かれ、自分のできる事をしていきたいと結ばれていました。
戦後70年企画第二弾として開いたこの映画会は第一弾と同じく「慰安婦」問題を中心に据えながら日本が分岐点に立った年として問題提起をしてきました。今後それぞれの場所で時代に立ち向かっていきたいと思います。
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(明)


「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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