6月27日 班 忠義 監督講演 



    告知!戦後70周年記念企画第2弾(10月12日)




6月27日の 戦後70年企画 班 忠義 監督の講演記録です。
講演記録には、一部映画内での解説も含まれます。



はじめに

私は今まで、日本軍の旧軍人や「慰安婦」にさせられた人たちの証言を聞く活動を続けてきました。1995年に今日の映画の「ガイサンシーの姉妹」に会いました。そしてそれ以来毎年山西省へ、彼女たちに会いに行っています。
彼女たちはもう数名しか生きていません。映画の中で証言してくださった方の中で、旧軍人の近藤さんはまだご健在ですが、他の方たちはほとんど亡くなっています。

今年3月近藤さんに会いました。高齢なのに力を振り絞ってお話される近藤さんの姿に感動しました。私は幼いころから、満州の平頂山において日本軍が住民を虐殺したという残虐行為を知っていたので、日本人は非常に怖くて鬼のような人間だと思っていました。日本軍軍人も戦後は苦しかったと思います。しかし彼らのほとんどが日本では沈黙して死んでいきました。しかし、彼らの何人かがこの戦争を告発いていたので、その姿にいつも感動していました。この戦争が我々人間に大きな深い傷を負わせました。そこで加害者・被害者の重要な証言を同時に記録してこの映画を製作しました。

しかし、戦後70年過ぎて…今の若い人はあまり戦争のことがわからないから、自分のことじゃないからと言って避けてしまうという姿勢をよくみかけます。日本では、この戦争について教えていないのでなおさらです。
このことは日本だけでなくて、我々アジア全体の不幸だと私は思います。そして日本では安倍政権そのものが歴史修正主義を掲げているので、若い人はどうすればいいのか分からなくなったという感じがします。

私は中国人なのにこのように日本で活動することがなんなのかと自分自身で思うのですが、実はとても戦争に深い縁があって私は日本に送られてきたのだと思っています。



中国と日本の懸け橋になりたい

私の生まれた町は撫順といいます。炭坑の町、そして日本人残留孤児・日本人残留婦人、戦犯管理所があるところです。そういう所の生まれなので私は頭にはいつも2000万、3000万という数字が浮かんでくるのです。2000万人は日中戦争の被害者数です。3000万人とは飢餓者で、1970年代の中国が間違った政策を実施した為、多くの国民が犠牲になったのです。

私の町には先ほどお話した(注)平頂山事件での日本軍において虐殺された住民の遺骨が今でも展示されています。そういう町で生まれて育った私が、日本に留学できたのは不思議なことでした。私は日本に留学する以前は、大学(日本語学科)に進み、日中戦争のことを調べていました。
そして私は中国の大学を卒業すると銀行員になりました。毎朝8時に出勤してお金を数えていました。しかし自分はもっと勉強したい、そしてもっと日中の歴史を調べたいという意欲を持っていたんです。それで日本への留学をしたいと考えるようになりました。

一介の労働者の息子である私の留学を支えてくれたのは普通の日本市民だったのです。この方も実にこの戦争が深く関わった方でした。この私を自宅に呼び、留学させてくれました。そして私の留学の費用出してくれたんです。今考えるととても考えられない事です。このとき私は29歳でした。そのころの中国人は国の事情があるし、誰も隣近所を信じることができなかったんですね。

ただ、あの頃の日本と中国は今日のように国同士が睨みあうというんじゃなかったのです。私はサラリーマンとか商売人とか、金持ちになるとかいうよりも、日中の歴史、そのわだかまりを解決させるために人生を捧げるべきだと思いました。ただ、単なる中国人じゃなくて日中の関係の懸け橋という存在になることなのだと思います。



(注):平頂山事件
  1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭坑を警備する日本軍の撫順守備隊がゲリラ掃討作戦行なった際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の住民が多く殺傷された事件




私と日本人残留婦人

私が日本に興味を持ったのは、中学2年生の時でした。50代の日本の女性と撫順の田舎で出会ってからでした。そのころ、中国は文化大革命の最中で、勉強できない。学校はちゃんとした授業を受けることができない。学生は先生の言うことを聞かない。授業中いろいろと自分が好きな事をします。先生もやる気がない。
革命的な価値感とは、知識があればあるほど反動的な思想の持主になり知識人を敵視するんです。ですから勉強はできないのです。そういった毛沢東の政策があったのです。

中学校を卒業したら、農村に送られ、農作業で思想改造を行うと言って、多くの青年が農村に送られていました。これからどう生きればいいのかわからない時、外国という違う世界のことをとても知りたくなりました。他の国もおなじかと好奇心が強く働きました。

そのような時に中国の農村で日本人残留婦人に出会いました。彼女に会った感想とは、日本人だって同じ人間ですね。それまで頭に焼き付いた人を殺す日本人のイメージが入れ替えられました。罪を犯した日本人への憎たらしい感情は、一時的な付き合いで感じ取った彼女の優しさによって大分緩和されました。その後、彼女から日本語を教えてもらい、同じ漢字文化圏である中国語と日本語の繋がりなどに興味をわき、ずっと独学を続けました。

1972年、日本と中国は国交回復したあと、さらに日本へのイメージは変りました。それまで戦争時代の白黒の写真から、いきなり色どりのきれいなガラス張りの高層ビルである近代的な日本に変えられました。現代の日本をよくニュース映画などで紹介されたからです。そこで日本語をさらにマスターして、将来の日中間係に役立てようと決意したのです。さらに身近にいる日本人残留孤児・残留女性たちの話を聞き、その時の歴史を調べようと思いました。

1931年中国の東北部、当時日本では満州と呼ばれ、そこに住む少数民族の満族を独立させ、満州国を作り上げました。その満州国を自国の領土として永久支配を目指して、所謂満州開発、満州移民、満州の花嫁と言った植民地政策と行動を起こしました。

日本の農村から多くの土地の持たない農民を移住させ、異国の地で住み着くように移民の男性を相手に未婚女性を募集して、中国の東北部に送り込み、結婚させることは、満州の花嫁が生まれた背景でした。私に日本語を教えてくださった曽おばさんはその花嫁の一人で、日本の長野県伊那にある宮田村から送られました。中国で結婚して、子供二人ももうけました。

ところで、1945年8月 終戦間近にソ連軍が参戦し、中国の北側から攻めてきて、満州に入りました。婦人子どもしかいない曽おばさん達の集団は中国での長い逃避行を余儀なくさせられました。
ソ連軍に追いかけられて子どもを背負って逃げるということは、たいへんな苦難に満ちた旅でした。飢えと疲れで、病気にかかるなど。歩けなくなると、中国人と結婚をしたんですね。
逃げる途中の日本人逃避行集団は中国の村に入って食糧を調達する際、必ず出された条件は、若い女性を残しておくれということでした。その若い女性は村の一番貧乏な男性と結婚するということになり、若々しい日本女性が無知な中国人農民と結婚することは「慰安婦」ほどではなくても、それでも恋愛ではないので、レイプのようなことになるでしょうか? やがてその女性と中国人との間に子供が生まれ、中国人社会で生きることになったのです。

日本人残留孤児・残留婦人たちは所謂加害者側の末端の人たちで戦争の罪を彼らに背負っていて、中国に生きてきたのです。それで声も出せず、旦那さんの暴力を受けた中で頑張って生きてきたんです。
そのような理不尽な境遇にいる残留婦人を私は助けたかったのです。回りから残留孤児・残留婦人をなぜ助けるのかといわれました。
日本に来てから残留婦人の「曾おばさんの海」を書いて日本で第7回ノンフィクション朝日ジャーナル大賞を受賞しました。


新作「太陽がほしい」

1992年が私の人生の大きな転換期でした。中国山西省から万愛花さんが来日して日本軍の性暴力被害を訴えました。然し彼女が訴えた戦争性被害は、性的被害を単純の性被害ではなく、より人間を破壊する行為が加えられていたことが分かりました。
1995年8月、山西省に渡り中国人「慰安婦」をテーマに調査を行いました。
被害現場は黄土高原にある貧しい田舎の集落でした。
このように辺鄙な山村から中国初の「慰安婦」が名乗り出たということに対しては、不思議に感じるほど、山奥でした。
「盂県」とは、中国人の中でもあまり知られていません。(…中略…)

1937年7月、日本軍は中国で盧溝橋事件(注)(北京西南方向の盧溝橋付近で起きた、日本軍と中国国民党政府軍による武力衝突事件。日中戦争の発端となった)を引き起こし、日中は全面戦争となりました。それまで十年近く、中国国内で蒋介石率いる国民党政府と対抗し戦ってきた毛沢東の共産党軍は、政府軍である国民革命軍に追われて長い逃避行を遂げ、山西省の西隣にある陝西省にたどりつきました。共産党軍の兵力は三万にも満たなかったのです。

 日本による中国侵略で国民の反日感情が高まる中、共産党軍は「民族危機に直面している今、一致団結して日本の侵略勢力と戦おう」と訴えて合法的な地位を得、勢力保存を図りました。さらに、8月22日~25日にかけて「洛川会議」(中央政治局拡大会議)を開き、国民党政府との内戦をやめて共に抗日統一戦線を結ぶこと、共産党軍の三個師団4万5000人を国民革命軍に編入することを取り決め、「第八路軍」と改名しました。

しかし、八路軍は軍事的自主性をもち、共産党軍事委員の指揮に従うという内部決定があり、この時から、蒋介石の政府軍と並行してもう一つの政治、軍事力が併存することになりました。そしてこの二つの勢力の闘いは、その後の中国の政治、軍事、国家建設において長く続いていくことになります。

 こうした歴史背景の下、山西省盂県では異民族の侵略による民族闘争、地主階級と農民階級による中国人同士の階級闘争が繰り広げられ、日本の強力な暴力支配のもと、凄まじい人間ドラマが展開されていきました。
 盂県のすぐ北に五台山があります。五台山は抗日戦争当時、共産党ゲリラの根拠地でした。

南の太原市、陽泉市と五台山を結ぶ二本の道は盂県を通っています。進圭社村はその西部の一本道、五台県との境近くにあります。そこから北にある多くの村々は、いずれも1942年9月に日本軍独立混成(司令部と各種の兵科〔歩兵、砲兵、騎兵、輜重兵、戦車など〕で構成される連合部隊です。師団に属さず、単体で独立した作戦能力をもつ)第四旅団の片山兵団長署名で公表された「無人区」内にありました。進圭社村は、日本軍にとって共産党ゲリラを抑えた最前線とも考えられます。

 私が初めて日本で万愛花さんに会ってから三年後、山西省の省都である太原市で万さんと再会しました。(…中略…)万さんは、「私が共産党員だったから、強制連行されたのだ。私は必死で抵抗し、けっして屈しなかった。逃げ出したが捕まえられ、拷問されて気絶をし、意識が戻ったらまた拷問を受ける。三回も逃げてはそのたびに捕まり、こういう仕打ちを繰り返し受けたので体がぼろぼろになった。ご覧なさい。」そう言うと彼女は、自身の体に刻まれた痛ましい傷跡を示し始めました。

 二年間の調査だけで3-40名の被害者と出会いました。
 その中から7名のインタビュー調査を行う過程の記録を編集し、「太陽がほしい」という題名で映画を作りました。この映画に日本各地から600人余りの方々から募金をいただきました。8月から順次各地で公開します。

この映画で日中戦争の歴史事実を知ってもらって、日中の両国民に歴史や戦争に対する共通認識を築き、永久の日本と中国の近隣友好関係、真の平和を実現するように微力を捧げたいのです。ご清聴くださってありがとうございました。(完)



実行委員より
是非、border=10月12日(日・祝)の上映会に足をお運びください。


講演 班 忠義/ 記録「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク






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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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