戦争被害者たちの心に届く謝罪を~首相の70年談話に思う
★時事ニュース - 2015年08月12日 (水)
1992年12月に山口地裁下関裁判所に、元従軍「慰安婦」と女子勤労挺身隊被害者が国に謝罪と賠償を求めて提訴しました。98年4月の判決で「慰安婦」原告が勝訴したことでマスコミに大きく取り上げられたことを記憶されている方もいるでしょう。
私がこの関釜裁判を支援した理由の一つに小さいころの忘れられない体験があります。私は1943年の暮れに瀬戸内の小さな村に生まれ、戦後の食糧難の時代に少年期を過ごしました。その頃、父や村の大人たちが話す戦争体験を聞くことがありました。小学校5年生の頃、風呂の建て替えに来ていた村の左官屋さんが茶飲み時間に大工さんに軍隊時代の体験を話しました。中国の村を襲って村人たちを集め、若い男たちをトラックから引いた電線で次々と拷問していったこと、村人たちに穴を掘らせてそこに追い込み生き埋めにしたこと、土を踏むと中から妊婦の腹が割ける音が聞こえた、という話でした。私は激しい衝撃を受けました。「日本人は二度と中国の人々に会うことができないような残酷なことをしてきたのだ」と恐ろしい罪の感覚にとらわれてしまいました。
その左官屋さんは私に壁を塗らせてくれ、ひどい塗りあとを嫌がりもせず直してくれる子供好きの優しい方でした。その優しい人が中国の村人にした残酷な行いを何の罪の意識もなく茶のみ話で語ることの違和感は、私が長ずるにつれ大きくなっていきました。そうした疑問を解きたくて私は中国や南方戦線で戦った軍人の手記をずいぶん読んできました。体験記から見えてきたものは、兵士の命をあまりにも軽視した日本軍の戦争の実態でした。「食料を敵に求む」と、食料の配送体制も整えず戦線を無謀に拡大し、半数以上の軍人を餓死か、栄養失調が原因で病死させています。飢えて弾薬も無くなっても投降することが許されず、ただ死ぬためにのみ米軍に突撃していった兵士たち。軍上層部から単なる作戦の駒として使い捨てられ、人間扱いされなかった下級兵士たちが、中国や南方の人々を人間と見なさなくなり、奪う、殺す、犯すという非道な行いに慣れ日常化していった様子が手記には描かれています。怒りと苦悩、そして深い反省と共に記されています。
しかしほとんどの兵士たちは戦場体験を客観視することもなく、「戦争だったからやむを得なかった」と被害者たちの痛みに気づくことも、罪の自覚もなく敗戦後故郷の日常生活に帰って行ったのでしょう。一方南方戦線で凄惨な体験をし、飢えて傷ついた戦友たちを置き去りにしてきた兵士たちも又、後ろめたい胸の内を語ることをしなかったのです。戦後の日本政府が加害の歴史に触れないようにしたのを下から補完していったのがこうした下級兵士たちの無反省と沈黙だったのでしょう。
関釜裁判の支援をとおして、被害者たちは心身の傷跡を抱えたまま長い戦後を生きてきたことを思い知らされました。戦争は過去の歴史ではなかったのです。戦後の冷戦下で日本の戦争被害国は押しなべて独裁政治で、被害者たちは貧困と抑圧の社会で生きてきました。日本がアジア各国と結んだ戦後処理の二国間条約に被害者の声が反映されることはありませんでした。冷戦が終わり独裁政治が民主化されるにともない被害者たちはようやく声を上げ始めたのです。日本にやってきて謝罪と賠償を求める裁判を通して、私たちは生々しい被害の実態に向き合ったのです。
国内外の戦争被害者の実態から長年目を背けてきた戦後政治の深い反省に立って、首相は植民地支配と侵略戦争の被害者たちの痛みに深く耳を傾け、心に届く談話を出してほしいと願ってやみません。
戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会元事務局長
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(花房俊雄)
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