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6月27日 木村公一牧師講演 


講演はインドネシアで取材した写真などをスライドで示しながらされました。





「慰安婦」とは何なのか?私の経験的「慰安婦」論です。被害にあった30数名の人たちと幾度もお会いしてインタビューをしました。この種のインタビューは人格の交わりが大切です。被害者たちは縦糸と横糸の言葉を織り上げるようして自らの被害を≪経験≫としていくのです。私はインドネシアで宣教師として働いていました。だからこそこの調査をしなければならなかったのです。

小さい頃、わたしの父は商売人で、盆暮れになると「慰安旅行」がありました。従業員と私たち家族が30人ほどで楽しむ旅行です。この「慰安」旅行と「慰安婦」という言葉が重なるのです。漢字文化圏の中で生活している被害者たちの多くが、自分たちが元「慰安婦」であったと言われるのを嫌います。「慰安婦」という言葉が自分たちの悲惨な経験を現す言葉にはならないからです。

インドネシアの新しい辞書には慰安婦(イアンフ)という言葉がのっている、日本軍が残した言葉として労務者(ロームシャ)という言葉もある。男女の性関係を軍事組織の支配と被支配という主人と奴隷関係に置き換えた国家犯罪である。我と汝という人格関係が見当たらない。この支配関係のもとでは、支配する側はいつでも強制力を行使できた。その一方で、行使された力を回避できないで恐怖や屈辱や嫌悪はPTSDとして墓場まで曳づることになる。これがさきほど班さんがここでお見せした事なんですね。日本軍が侵略したいたる所にこうした人たちをつくりだしてしまった。それだけではなく、彼女たちを捨て去ったまま戦後私たちは生きてきたという事実を私たちはしっかりと認識しなければなりません。

さてトゥミナさんという人が1992年にインドネシアではじめて、ご自分が「慰安婦」被害者のひとりであることを名乗り出たのです。この人にはゴジャックさんという養子がいました。トゥミナさんは一所懸命働いて彼を大学まで行かせ、地元紙の新聞記者になった。ある時、義母が「慰安婦」とされた自分の経験を恥として話しはじめた。これをどう克服していくのか、二人の間で対話が始まった。1年掛った、人権教育などほとんど受けたことがない彼女が大きく変わった。彼女はジャワ・キリスト教会という教会のメンバーでした。そんな関係で養子のゴジャックさんは私の名前を知っていた。彼は義母の経験を新聞記事として書き上げ、世間に公表した。わたしは二人と会い大変な衝撃を受けた。それは神学校の教師として私の教育と研究の根本姿勢を変える経験でもありました。

インドネシアでは22234人の人たちが日本軍の性暴力被害者として登録している。
日本軍がインドネシアに侵攻したとき、インドネシアには三つの政治グループが活動していた。ひとつは日本軍をアジア民族の解放者として歓迎したグループ。彼らは軍制を実施されていくと次第に失望していきます。第二は独立後のインドネシアを指導していったスカルノやハッタなどのグループです。彼らは日本軍に対して戦略の一環として現実的対応をした。日本軍はオランダ時代に牢屋に入れられた政治犯たちを解放した。そして日本軍はイスラム教徒を優遇した。それまでイスラム教徒は冷や飯を食わされていた。日本軍によって自分たちの時代が来たと思った。第三はオランダ時代から武装闘争をしていて敵がオランダから日本に変わったに過ぎないと考えたグループで、彼らは日本軍から徹底的に弾圧された。この人々は戦争が終わった時およそ1万人が牢屋に入っていたといわれている。この人たちが解放され、第二のグループと一緒になってオランダ、イギリスに向かって独立戦争を戦っていく。日本軍は3年半の統治でミニタリズムという「遺産」を残した。このため戦後ずっと民主化運動は弾圧された。

日本軍がインドネシアに入っていくのは1942年2月ですが、その1年半前に深田という軍医が密かに売春宿の調査に入り、「原住民は生活難のため売いんする者多し、村長に割り当て、厳重なる検黴の下に慰安所を設ける要あり」と提言している。占領後のインドネシアの島々でどんどん軍慰安所ができていった。
独立後のインドネシアで最も大きな前衛的女性団体であった「インドネシア女性運動」は1965年にスハルトのクーデターで大弾圧を受けた。スラミさんという指導者の一人は次のような証言をしている。「日本の占領時代、村長が年頃の娘がいる家を一軒一軒巡回し「労務者」として働くか「看護師」として働くか二者択一を迫った」。スラミさんはこの時17歳で、父親は「看護師」として働くことを拒否し、「労務者」として働くように言われた。彼女は刑務所で裁縫の仕事に就いたが、当時2000人ほどの受刑者のうち、半分は独立運動で逮捕された人だと言った。

極東軍事裁判でダムステという検事が「シンガポールにおける法務局長による概算によればシャム(現在のタイ)の北部で鉄道敷設に雇用された労務者のうち8万人、そのうち大多数のジャワ人が死亡した。」と述べている。つまりジャワ島を他の島と比較すると「人口過剰」であったので、それを日本軍は労働力の供給基地として利用し、大勢の被害者を出した。

「慰安婦」と呼ばれる人は、頂点に天皇が君臨する日本軍政のピラミッド三角形の底辺に位置づけられた人々である。その上に「労務者」がいた。またその上が兵補と呼ばれる人たちが7万人もいた。これも日本軍によって徴用され、日本の一等兵、二等兵の下で働く「兵補」として徴用された。この過酷な差別体制をある学者は「犠牲のピラミッド」という。インドネシア人はこの犠牲者は奴隷労働をされていたのだと自覚した。そして実は日本軍組織そのものが奴隷システムであって、このシステムの中で下級日本兵も過酷な奴隷的扱いを受けた。私はこれを日本軍の「奴隷的慣習」と呼んでいる。これが当時でも国際条約違反であった「労務者」の強制徴用と性奴隷制を必要とした。

慰安婦として連行していくやり方には三つの形態があった。一つは騙し。二つ目が物理的暴力によって少女たちの心を支配する。三番目は、例えば、お前が来ないとお父さんが被害を受けるとか、あるいは、お父さんが日本軍に抵抗したために牢獄に繋がれていたとすると、先ほどのガイサンシーと全く同じことがおこる。お前が日本兵に従順に従えば、父さんは釈放されると一番弱いところをついてくる。この三つが複雑に絡み合って、戦時性暴力が行われていた。安倍さんは強制連行を示す資料がないというのですが、日本政府、軍が残した資料を集めた『日本軍「慰安婦」関係資料21選』を今日会場の入り口で売っています。

さてインドネシアで私が調査した被害者たちの被害形態を大別すると、3つに分類できる。まず、被害者の年齢ですが、14歳から17歳に集中している。これは統計が出ている。二万二千二百数十人を調査した厖大な資料が存在する。1冊が11センチで4巻になっている。どうして少女たちが狙われたかというと、ジャワ島では18歳になると大体結婚する、その前の独身の少女が狙われた。もちろん18歳、19歳、二十歳過ぎた被害女性もいる。しかし14歳から17歳に集中している。次に、日本軍が性病経験のないいわゆる「清潔」な女性を求めたということだ。三番目は、農村の学歴のない人権意識の薄い少女たちを狙っている事は状況証拠から明白である。都市部の女学生の場合、両親が黙っていない。こういう人たちが徴用され、ボルネオや他の島々に連れていかれた。

「慰安所」施設の形態

1.まずジャワ島から他の島々に連行された人たちの慰安所。
2.日本軍が駐留した近くに住む女性を兵士たちが拉致し監禁した慰安所。
3.兵士たちが駐屯地近の女性たちを兵舎に連れていきレイプするケース。この被害者はたくさんいる。この場合,兵舎や駐屯地がレイプ・センターになったわけだ。
4.将校たちは営外に将校官舎を持っていた。女性を自分の宿舎に囲い将校官舎を慰安所とした。これはすでにマレーシアに勤務した将校が、「将校はみんな専用慰安婦を持っていたから私たちは慰安所に行く必要なかったのです。」と証言している。わたしは兵補たちからも同様の証言を聞いている。そういう場合に赤ちゃんが生まれるケースが多い。
5.日本の植民地であった朝鮮、台湾の若い女性が連行監禁された慰安所。スミラさんは自分が入れられた「スマラン・クラブ」に朝鮮から連れて来られた女性がいたと証言している。
6.オランダ人抑留所から若い女性が連行され監禁された慰安所。その場合、オランダ時代の建物を接収して使った。
7、インドネシア女性が東南アジアの他の国に連行され監禁された慰安所。

人権侵害状況について

1.強制堕胎や子宮摘出。将校住宅でレイプされたスハナさんはお腹を見せて「これが子宮摘出の痕です」と言った。スハナさんはこの写真のこの部屋でレイプされた。
2.日本兵の子どもへの差別。東南アジア文化友好協会の坂部さんは「この戦争でインドネシアに残された日本人混血児は3万人と称される」と言う。
3.医師による暴行。性病検査をする医師からレイプされたケースが少なくない。
4.殴打による拷問。ほとんどの被害者が兵士の要求する性行為に反抗的態度を示したため兵士から暴力行為を受けている。
.凶器による脅迫。将校の「専用慰安婦」にされたサイダさんは、イスラムの祭を見るために数歩外に出たために日本刀で脅され酷い目に遭っている、何でそこまで怒るのか精神的に異常ですね。
6.「性病検査」という名の辱め。性病検査をするこの器具を兵補だった人が私に譲ってくれた。検査は女性たちの健康管理ではなくて、いわゆる「商品管理」にすぎなかった。性病検査は最も恥ずかしい事のひとつとして多くの被害者が証言している。
.衣食経済状況の劣悪さ。慰安所においてほとんどの被害者が飢えを経験している。ある兵士がお前らの仕事に衣服は必要ないだろうと、こういう言い方をされてひどい侮辱を受けた。
8.幼児の誘拐。オガワという将校はこの町で一番可愛い女の子を探して来いと町内会長に命令した。スリ・スカンティさんは、そのようにして兵士たちに連行された。彼女の年齢は9歳だった。監禁された将校住居は今でも空家として存在し、自由に入れる。彼女はバルコニーに出ることだけが許された。2階がオガワの部屋で1階がその部隊の事務所だった。

「慰安婦」問題はアジア諸国との外交問題になり、それがネックになって国際関係がぎくしゃくしている。なんで安倍さんは「悪い事しました。ごめんなさい。」と言わないのか。アメリカの友人(政治学者)が言っていたが、安倍さんがアメリカ議会で演説するにはいくつかの条件があったようだ。そのひとつが「慰安婦」問題の解決して下さいという事だった。それは当然の交換条件であった。だから、安倍さんは何らかの政治解決をする必要に迫られているはずだ。

わたしは日本政府は被害者が納得する道を考えて、正式な賠償と謝罪をするべきだと思う。それ以外に被害者は納得できないはずだ。それが第一条件だが、それだけでは済まされない。第二は中学校と高校の教育において「慰安婦」問題を教えなければならない。過ちを忘却した民は、再び同じ過ちを繰り返す。第三には私たち民間の仕事である。今日皆さんここにやってきた。これも市民の責任の取り方の一つである。皆さんは自分の良心にかけてこの集会に参加した。こういった行動が私たち東アジアの新しい世界を築いて行く土台になるという事を今日は確認したい。有難うございました。

講演 木村公一 / 記録「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク(明)






 「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク

Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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