ロラたちとの一期一会(3回目)
連載:フィリピン便り - 2014年12月02日 (火)
ロラたちとの一期一会(3回目)
澤田公伸
日本で「従軍慰安婦」問題に関して朝日新聞が吉田清治氏の証言を引用した記事を取り消したことを受けて、軍慰安婦制度の強制性自体を否定する政治家の発言や言論界の報道が増えた。鹿児島県議会を始め国内各地の自治体でも、慰安婦問題が日本の歴史を歪めるとして適切な対応を求める意見書を採択する動きが広がっているという。
これらの動きに対し、今年10月下旬に東京を訪れたフィリピン人元慰安婦のフェリシダッド・デロスレイエスさん(86歳)と支援団体リラ・ピリピナの代表レチルダ・エクストレマドゥーラさんは「フィリピンの被害者たちは歴史の生き証人だ。証言からは強制的に連行されたのは明らか。当時13~14歳だった少女たちが自ら慰安所に行くとでもいうのか」と集会などで訴えた。
レチルダさんは日本人支援者たちとの会合でも、朝日新聞の記事取り消し問題以降の日本の状況について、「とても懸念している。右翼による攻撃にはこちら側も結束を強めて対応しなければならない。大切なことは事実をより多くの一般の日本人に知らしめること。証言集会などを日本各地で一斉に縦断的に開催するのも効果があるのではないだろうか」と分析し、提案なども示した。
通訳として同行していた私は、彼女たちの訴えを聞きながら、裁判の原告となったロラたち(フィリピン語で「おばあさん」の意味。フィリピン人元慰安婦の被害女性たちに対しても周りの人たちがこう呼ぶ)の被害地における現地調査に参加した時のことをふと思い出した。
1993年、

フィリピンはルソン島とミンダナオ島という主要な2つの島のほかに、その中間にあるセブ島やパナイ島など比較的小さな島からなるビサヤ諸島を含めて全部で7千以上の島がある。私も現地調査団と一緒にマニラ首都圏だけでなく、北はルソン島イサベラ州から同島ビコール地域のソルソゴン州、ビサヤ諸島では日米軍の激戦地だったレイテ島オルモックからパナイ島アクラン州、南はミンダナオ島までと、フィリピンを縦断するように何度かに分けて同行した。
被害女性たちの居住地の内訳は、地方の被害地に現在も住み続けている人が20人ほどで、残りの26人については、もともとマニラ周辺に住んでいた人が若干いたが、ほとんどは戦後、地方からマニラに移住した人だった。現地調査する場合も、地方の被害地のすぐ近くに住むロラを訪ねて行く場合と、首都圏に住むロラを地方まで一緒に飛行機や長距離バスで帯同して行く場合に分かれた。
ちなみに原告46人の訴状をみると、彼女たちが被害を受けた当時の年齢は10歳から29歳までに広がっているが、最も多い被害年齢は13~15歳となっている。彼女たちの被害状況にほぼ共通しているのは、当時住んでいた村や町にやって来た日本軍部隊がパトロールや検問などの最中に被害女性たちを疎開先や自宅、路上で拉致し、当時駐屯していた小学校や町役場などに連れ込んで自由を奪い、数週間から数か月にかけて性奴隷にするというものだ。昼間、調理や軍服の洗濯を強制され、夜に性奴隷にされるケースが多かった。現金などを受け取ったケースは皆無だった。
特殊な例では、故ピラール・フリアスさんのように、避難先の小学校で拉致され、ゲリラ掃討で山中を常に移動する日本軍部隊に他の女性たちと一緒に腰縄でつながれ、性奴隷として連れ回されたケースもあった。中には、マニラ首都圏にあった慰安所と思われる施設に連れ込まれたり、拉致後に日本人将校や軍属の料理人と思われる日本人に囲われるケースもあったが、これらは全体の1割ほどにすぎない。
ミンダナオ地方マルベル市郊外で日本軍に性奴隷にされた故フリア・ポラスさんの現地調査が印象深かった。ロラ・フリアさんは当時、マニラ首都圏ケソン市に住んでいたがミンダナオ地方南部まで来てくれて、自分たちが昔住んでいたという場所に案内してくれた。バンを借り切ってココヤシやバナナの農園をいくつも越えて長時間走り、ある川沿いのジャングル風の野原まで来た。ロラ・フリアさんは何十年ぶりの現地訪問にもかかわらず、「ここに当時、自宅があった」と、今は何もないジャングルの中の現場まで、あまり迷うことなく案内してくれた。川の曲がり具合や山岳地帯との位置関係から分かるようだった。そして、よどみなく当時の状況を証言し始めた。
ある日中、いかにして迷彩のためヘルメットに草を付けた日本兵たちが自宅にこっそり近づき、家の中にいた少女がいきなり拉致されたのか、身振り手振りで、ある時は日本兵になり、またある時は15歳だった少女に戻って、拉致の瞬間を詳細に再現するのだった。口を塞がれ、髪の毛をつかまれ連行される様子を説明する際には、今まさに日本兵に連行されているかのように髪の毛を自分で引っ張り、顔面を蒼白にするのだった。
フリアさんは、その後、川沿いの離れた場所にある橋のたもとに当時作られた日本軍の防空壕跡まで案内してくれた。その場所を指差しながら、ロラ・フリアさんは、自分の人生でおそらく最も恐怖に襲われたであろう、あの瞬間、つまり、薄暗い防空壕に連れ込まれ、30人ぐらいの日本兵から半年以上の間、毎日のように輪姦された当時の記憶にもう一度向き合っていたのだ。普段は陽気で明るいロラ・フリアさんだったが、あのように鬼気迫る表情で自分の身の上に起きた「事件」を必死に我々に訴えたのは、忘れ去られようとしている被害事実をなんとか日本の裁判所や市民に伝えたい、という一念だったのかもしれない。
現地調査の後は必ず、ホテルの部屋などで詳細な聞き取りが待っていた。自分が生まれた時の家族構成や両親の仕事、戦前の生活、日本軍による占領期の生活、拉致・連行された際の様子、被害の全体像、解放された時の様子、戦後の生活、名乗り上げようとした理由、日本政府への要求などなど。特に、日本兵に拉致され、連行された様子や、日本兵から最初に強姦された時の状況については、日本人弁護士たちは詳細に、何度も、様々な角度から質問するなどして明確にしようと努めた。ロラたちは、この通訳も入れると3~4時間はかかる聞き取りに進んで応じた。拉致・連行される状況を説明する際にはほとんどのロラたちが恐怖と怒り、自分の無力さに打ちのめされるような声で語るのだった。
ロラ・フリアさんもそのような苦しい聞き取りに、懸命に耐え、最後まで答え続けた。何度も恐怖に震え、疲れ切った様子のロラ・フリアさんだったが、インタビューが終わると弁護士さんに丁寧にお礼を言った。そして通訳をしていた私にも「ありがとう。心のつかえがなくなったみたい。本当にありがとう」と何度も手を握って離さなかった。
どのロラも現地調査やその後の聞き取り調査ではほとんど同じ反応だった。顔面が蒼白になり、震える手で被害現場を指し示す様子や、聞き取りの最中にハンカチで何度も涙を拭くロラたちの姿を間近でみながら、私は、被害事実の重みというのは、本当に体験した人にしか、他人に伝えることができないものなのだと強く感じたのだった。
澤田公伸 (つづく)

(フィリピン人元「従軍慰安婦」を支援する会提供)
「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
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