本になりました! 『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』





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『BC級バタビア裁判・スマラン事件資料』が本になりました!!



          強制動員真相究明ネットワーク発行

          A4版135ページ 2014年8月

          頒価 1000円(送料82円)

          郵便振り込み 00930-9-297182

          加 入 者 名  真相究明ネット


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以下 本の「解説」より転載

(1)原資料の公開経過

 1992年、外務省はオランダ国立公文書館から「BC級(オランダ裁判関係)バタビア
裁判・第69号事件、第106号事件」の裁判記録を入手しました。この資料は河野談話
作成にも利用されました。梶村太一郎さんも同資料の一部を入手し、その内容は1992
年7月21日の「朝日新聞」で報道されました。

 この資料は1999年に法務省から公文書館に移管されましたが、強制動員真相究明
ネットワークによる情報公開請求によって、2013年に公開されました。公文書館での
冊子名は「法務省/平成11年度/4B-23-4915」および「法務省/平成11年度
/4B-23-4956」です。この開示文書にはスマラン(スマランクラブ、日の丸クラブ、双
葉荘、将校クラブ)、マゲラン、フロレス島での「慰安婦」関係資料が含まれていま
す。

 原資料は写真(8GB)で開示されました。オランダ語分が約650ページ、日本語分が約
350ページです。日本語部分の文字化を会員の須磨明さんがおこないました。強制動
員真相究明ネットワークではその提供を受け、「BC級バタビア裁判・スマラン事件
資料
」の形でこの冊子を編集しました。



(2)開示文書の各事件の概略

【マゲラン事件】

 1943年12月はじめ、マゲラン州長、憲兵らがムンチラン抑留所事務所を訪れ、約15
名のオランダ人女性の名前を書き留めさせました。さらに17歳以上の独身女性の報告
を命じましたが、抑留所の会長はこの指示を拒否しました。

 翌1944年1 月、憲兵らが同抑留所に来て、以前に作成した一覧表の女性を教会に並
ばせ、14名の婦人と独身女性に30分後の出発を命令しました。出発を止めるために、
抑留者全員が表門に集まり抗議しましたが、日本人は巡査に命じて、長い竹棒とサー
ベルの抜身でなぐり、解散させました。女性たちは2~3台のバスでマゲランの「慰安
所」に連行されました。

【スマラン事件】

 1944年1月、スマラン駐屯地司令であった能崎少将が部下に「慰安所」設置の認可
交渉に当たらせ、第16軍司令部の許可を得て、抑留所から女性を集める手配と4軒の
「慰安所」開設の準備を指示しました。

 2月末、オランダ人抑留所(アンバラワ第4、同第6、ゲンダンガン、ハルマヘラ)か
ら35名の女性をスマラン市内 のホテルに連行しました。女性たちはスマランクラブ、
日の丸クラブ、双葉荘、将校クラブに振り分けられ、3月上旬から軍人・軍属のため
の「慰安婦」とされました。「慰安所」は2ヶ月間運営され、4月末に閉鎖されまし
た。

【フロレス島事件】

 4月中旬、スマラン市内から100人ほどの女性(インドネシア人、中国人、欧州人)を
呼び出しや連行で警察署に集めました。身体検査をした後に、その中から十数名のオ
ランダ人女性をスラバヤ経由でフロレス島の「慰安所」に強制連行しました。



(3)スマラン事件などの背景

 日本のインドネシア侵略

 スマラン事件は日本帝国主義の南方侵略に端を発しています。1941年12月8日、日
本軍はマレー半島に上陸し、1942年1 月マニラ、2月シンガポール、3月ラングーン(現
ヤンゴン)を占領しました。1月以降インドネシア各地に上陸を開始し、3月1日にジャ
ワ島に上陸し、5日、首都バタビア(現ジャカルタ)を占領しました。

 オランダ軍は3月9日に降伏し、日本軍はインドネシアに軍政を敷きました。バタビ
アに軍政監部(軍政監は第16軍の参謀長が兼務)を置き、地方には州政府(州庁)を置
き、日本人が主要ポストを占めてインドネシアを軍事支配したのです。日本軍は「解
放軍」を装って上陸しましたが、当初からインドネシアの独立を許容する意図はな
く、1943年5月にはマライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスを「帝国領土」
と決定し、重要資源の供給地と位置づけました。

強制徴用(ロームシャ)

 日本はジャワ上陸当初4万5000人いた第16軍の一部をガダルカナルなどに移動さ
せ、1943年10月段階で8000人弱になりました。その穴埋めのために、インドネシア人
の「兵補」や「防衛義勇軍」を作り、日本軍の部隊に配属しました(48000人弱)。こ
れらのインドネシア人がその後、日本軍・オランダ軍と戦い、インドネシア独立運動
をすすめていくことになりました。

日本軍は橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕を建設するために青年男子を強制
徴用しました。かれらは「ロームシャ」と呼ばれました。ジャワ島の各地から集めら
れた数千の人びとは国内だけではなく、マラヤ、ビルマ、タイなど国外にも送り出さ
れました。「ロームシャ」の仕事は、原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、 山の中で
岩を砕くことなどの重労働でした。

 彼らは平手でたたかれ、銃や鞭などで殴られ、足蹴にされるなどの暴行を受け、抵
抗する者は殺されました。かれらの衣服は不充分であり、食糧もタピオカの粥でし
た。その結果、何千人もの「ロームシャ」は、2度と故郷に戻ることができず、亡く
なりました。「ロームシャ」動員数は、インドネシア政府の調査では1943年11月から
1945年8月までで約400万人とされています。

軍隊「慰安婦」制度

 インドネシアでは、日本軍「慰安婦」が制度として存在していました。第16軍スマ
ラン駐屯地司令の能崎少将は「慰安設備は何れの国の軍隊でも必要ではないだろう
か。この種の設備が全然なかったとしたら、軍隊はとても治まりがつかな くなる」
と、軍隊「慰安婦」制度の必要性を主張しています。4万5000人の日本軍将兵の性欲
を満たすために、インドネシア各地に「慰安所」が設置されたのです。

 日本軍はさまざまな方法でインドネシア女性を「慰安婦」にしました。① 軍が公
然と募集し、管理する「慰安所」を設置しました。② 特定の部隊が独自に女性を集
めて自分たちだけで利用するという「慰安所」もありました。③ 日本軍将兵が個人
的に女性に暴行を加え、駆り集めるというケースも多くありました。④ 特定将校が
「現地妻」として専属的に性行為を強制していたケースもありました。

 日本占領下3年半の間に犠牲となったインドネシア女性の数は兵補協会に名乗り出
た数だけで1万9573人に上っています(1995年)。すでに亡くなったり、名乗り出るこ
とのできなかった女性を合わせれば、被害者数は少なく見積もっても、その数倍にな
るとみられます。

 このように、インドネシアに駐留した日本軍は将兵の性欲のはけ口のために「慰安
所」を作り、多くの女性を「慰安婦」(性奴隷)としました。「スマラン事件」はそ
のひとつです。



(4)冊子発行の意義

 スマラン事件は『「慰安婦」強制連行―史料 オランダ軍法会議資料』(梶村太一
郎・糟谷廣一郎・村岡崇光共著2008年) 、『ここまでわかった日本軍「慰安婦」制
度』(吉見義明・林博史・西野留美子共著2007年)などで取りあげられ、耳目を集めて
きました。しかし、日本政府は「慰安婦」の強制連行を証明する資料はないと語るな
ど、事実から真剣に学ぼうとしていません。また、ネット上には「慰安婦」の存在を
否定するような表現もあります。

 戦争犯罪を追及する力が弱かったために「慰安婦」問題などの解決が遅れていま
す。戦後70年を直前にしても、いまも被害者の思いに応えることができていません。

この資料には、言い逃れのできない真実と証拠が記されており、とりわけ性的被害を
受けた女性たちの証言には、活字にすることを躊躇するものもあります。しかし、こ
れらの証言は私たち に託された「遺言」であり、被害者への謝罪と賠償を実現し、被
害者の尊厳と権利を回復するまで活動しなければならないと思います。



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Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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