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2013年05月のエントリー一覧

  • 日本軍「慰安婦」問題に関する橋下発言の根本問題とは

    日本軍「慰安婦」問題に関する橋下発言の根本問題とは                               木村公一 筆者は1986年から2002年までの17年間、インドネシアの大学で教育にたずさわりました。インドネシアにおいて日本軍「慰安婦」問題は1992年ごろから意識化されはじめました。それを機にわたしは調査をはじめ、その成果を公表してきました。去る5月13日以来の「慰安婦」問題をめぐる橋下氏(「日本維新...

  • 日本だけがなぜ非難されるの?-他国の場合は?

    日本だけがなぜ非難されるの?-他国の場合は?「慰安婦」問題を論じる際、慰安所をもっていたのは日本だけじゃない。どこの軍隊でも慰安所と同じようなものがあった。日本だけが非難されるのは不当だ、ということがよくいわれます。果たして、そうでしょうか。ポイントは、自国の軍が売春宿(慰安所)をつくっていたかどうかです。 現在までの研究で判明しているのは、軍が率先して推進していったのはナチス・ドイツと日本の軍だけ...

  • 性奴隷制としての軍「慰安婦」制度

    性奴隷制としての軍「慰安婦」制度軍「慰安婦」とは1932年の第一次上海事件から1945年の日本の敗戦までの期間に、戦地・占領地で日本の陸軍と海軍が作った慰安所で軍人・軍属の性の相手をさせられた女性たちのことです。軍慰安所には3種類がありました。①日中戦争の初期には軍が直営する慰安所が作られました。しかし兵士たちは軍人監視の下での買春に窮屈さを感じ不人気でした。(軍政下のインドネシアにもこうした慰安所があった...

  • 橋下大阪市長の「慰安婦」問題への発言について

    橋下大阪市長の「慰安婦」問題への発言について 13日の記者会見で橋下大阪市長が「慰安婦」制度必要論と沖縄訪問の際に米軍司令官に風俗産業の利用を進言したことを明らかにしました。この発言は国内外の猛烈な憤激と批判を引き起こしました。橋下市長は発言を修正しながら、従来からの持論である「どこの国も慰安婦制度は持っていた。軍や国を挙げて強制連行したという証拠がないのになぜ日本だけが批判されるのか」と執拗に繰り...

  • わたしから あなたへ(ブログメンバーからのメッセージ)

    「慰安婦」問題は、とかく日韓の政治問題として語られがちですが、人の痛み・苦しみへの想像力や感受性の問題ではないでしょうか。日本軍が侵略したアジアの全域に、「慰安婦」として拘束された女性だけでなく市街地や民家で性暴力に遭った被害者たちがいます。日本国内にも「慰安所」がありました。「慰安婦」制度は、社会的弱者への暴力を正当化するシステムでした。日本人「慰安婦」も被害者です。このことは、公娼制度の被害者...

  • マサから あなたへ (ブログメンバーからのメッセージ)

     私が初めて元慰安婦にお会いしたのは今から10年ほど前、母と同じ年頃のフィリッピンのロラ(おばあさん)たちでした。日本軍の兵隊と一緒に移動しながら昼は洗濯や炊事、夜は複数の兵隊からのレイプ生活・・その話を聞きながら、思いました。軍隊に連れて行かれたわけではないけれど、大勢の人からのレイプではないけれど、ロラたちと比べようもないけれども、母たちそして私たち、子どもたちにも同じようなことが起こっている...

  • 「慰安所」はどうしてつくられたの? 

    「慰安所」はどうしてつくられたの? 日本軍の慰安所制度は、1937年7月盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が本格化し、12月の南京占領直後に確立していきました。南京攻略戦から占領にかけていたるところで頻発した日本軍兵士によるレイプの凄惨さは、在南京欧米人によって世界に報道され衝撃を与えました。当然、中国国民の反日感情を激化させました。日本軍はレイプ防止と性病予防のため、軍人の性行為を管理するシステム=...

  • 「慰安所」ではどうだったのでしょうか?

    「慰安所」ではどうだったのでしょうか?軍「慰安所」では女性たちはどのような状態に置かれていたのでしょうか?植民地だった朝鮮人女性の証言からは「よい仕事がある、お腹いっぱい食べられる、工場で仕事をする」などの甘言で売られてきた人が多かった事が分かります。自分達がどんな所に送られたのか分からず、軍医による性病検査に激しく抵抗した様子が軍医の日記に記されています。慰安所に連れてこられた女性たちは日本兵に...

  • 軍「慰安婦」の報酬はどうだったか。

    軍「慰安婦」の報酬はどうだったか  軍「慰安所」は都市部と中国の前線や南方占領地域など形態は一様ではありませんでした。しかし漢口慰安所のように制度として確立された所では入場は切符制でした。軍人は帳場で料金と引き換えに切符を受け取り「慰安婦」に切符を渡していました。軍人たちは料金を払ったために女性たちが大金を儲けたかのような印象があったのでしょうが、被害者の証言では金銭を得ていたケースはごくわずかで...

  • これじゃぁ通用しないよ 日本の議論のガラパゴス化

    これじゃぁ通用しないよ 日本の議論のガラパゴス化 連行が強制連行でなければ日本政府と軍の責任はないし、問題ないとの言説がまかり通っています。その日本での「議論」をガラパゴス化していると嘆く論文が月刊誌「世界」2012年12月号に載りました。元外務官僚・東郷和彦さんによるもので、ここでは印象的な部分を紹介します。 アメリカで行われた歴史問題シンポジュームに参加したアメリカ人から言われたこと。「日本で...

  •  マリア・ロサ・L・ヘンソンさんの証言

    私は1927年12月5日に貧農の母フリアと、フリアがメイドとして働いていた大地主のヘンソン氏との間に、マニラ首都圏パサイで生まれました。7歳のとき、父の援助でパサイのカトリック系の聖マリア・アカデミー(女子修道会が経営する私立学校)に7年生まで通いました。そのころの夢は医者になることでした。母は私が7歳のころから、自分の娘時代の話しをしてくれるようになりました。母は地主や親に従う他になかったこと、私はレイプ...

  • レメディアス・フェリアスさんの証言

    わたしは、1928年にレイテ島のグラウエン町エスペランサ村で4人姉妹の末っ子として生まれました。父は農夫として、母は小さな店を構えて一家の生計を立てていました。ほんの少しの土地もありましたので、ココナッツやトウモロコシ、米などを植えていました。このころのわたしたちの生活は決して貧しいものではなく、家族はみんな向上心を持ちしあわせに暮らしていました。14歳のある日、わたしたちが家の中にいると日本兵がやって...

  • 趙潤梅(Zhao Runmei)さんの証言

    趙潤梅(Zhao Runmei)   1925年盂県西煙鎮南村生まれ 2008年永眠                        私は1925年山西省盂県西煙鎮南村で三人姉妹の長女として生まれました。私が3歳の時、母は下の妹を産んだ後に亡くなり、私は養父母に預けられることになりました。養父母の家には義理の兄が二人、姉が一人いましたが、皆仲が良く私をかわいがってくれました。【それは数え年17歳の早春のことでした】...

  • 南二僕 (Nan Erpu) さん (証言は養女 楊秀蓮さん)

    南二僕 (Nan Erpu)                     1923年 盂県南頭村生まれ 1967年自死 証言は養女 楊秀蓮  【養母・南二僕の遺言】 私・楊秀蓮は1964年生まれで、生後70日ほどで楊喜順、南二僕夫婦の養女になり、育てられました。数えで13歳くらいだった小学校3年生の時のことです。「憶苦思甜(昔の苦しみを思い 今の幸せをかみしめる)」の大会があり、河東村の李春富という老人が「抗日戦争の時代に盂県城...

  • インドネシア被害者たちの証言

                 インドネシア被害者たちの証言                     木村公一 わたしは1986年から2002年までの17年間、インドネシアの大学で教育にたずさわりました。インドネシアにおいて日本軍「慰安婦」問題は1992年ごろから意識化されはじめました。ここにいくつかの例をみなさまに分かちあいたいとおもいます。アミナさんの場合(西ジャワ・スカブミ) アミナは13-4歳の時、中学校で学ぶた...

  • 朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言

    はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)出典はこちら→関釜裁判 証言者たち 朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言 (2006年2月19日81歳の生涯を閉じられました。心よりご冥福をお祈りします)1 生い立ち 私の名前は朴頭理(パク・トゥリ)といいます。生年月日ば新暦と陰暦がありますが、陰暦1924年9月2日生まれです。ソウルにある仏教団体のナヌメチップ(わかちあいの家)で細々と生活をしております。...

  • 李順徳(イ・スントク)さんの証言

    はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)出典はこちら→関釜裁判 証言者たち 李順徳(イ・スントク)さんの証言 1 生いたち 私は1918年陰暦10月20日、全羅北道裡里郡の慕縣(モヒョン)どいう村の農家で生まれました。父母と私と三歳下の弟の4人家族で、家は小作地も無く、他の農家の賃仕事で生計をたて、大変貧しい暮らしでした。部屋が一つしかない藁葺きの家に一家で住み、私も弟も一度も学校に行ったことがな...

  • 河順女(ハ・スンニョ)さんの証言

    はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)出典はこちら→関釜裁判 証言者たち 河順女(ハ・スンニョ)さんの証言  (河順女(ハ・スンニョ)さんは2000年5月5日に亡くなられました。心よりご冥福をお祈りします。) 1 生い立ち 私は1918年2月2日、全羅南道木浦市で父河東淑、母南東郷との間に長女として生まれました。父は全羅南道霊光郡で小作農をしていましたが、私が生まれた当時、母と出稼ぎで木浦に来てい...

  • 宋 神道(ソン・シンド)さんの証言

    はじめての方はこちらをお読みください⇒(はじめに)2002年7月23日内閣委員会で「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」の審査がありました。被害者に参考人として委員会で実際に体験したことを直接話して欲しかったわけですがかなわず、岡崎トミ子さんがその思いを代読されました。それは在日の被害者で唯一裁判を闘い、当時最高裁に上告中の宋神道(ソン・シンド)さんの陳述で、事前に心情を語っていただ...

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プロフィール

「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク

Author:「慰安婦」問題にとりくむ福岡ネットワーク
私たちは「慰安婦」被害者に20年あまり前に出会い、その被害の深刻さに衝撃を受けました。私たちは被害者が生存中に「解決」したいと、さまざまな道を探りながら活動し続けてきました。今も大きな課題として残る「慰安婦」問題を多くの人に分かりやすく伝え、今後このような性暴力を起さないために私たちはブログを立ち上げました。

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河野談話全文

慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話  いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。  今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。  なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。  いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。  われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。  なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。(1993年8月4日、外務省ウェブサイトより

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